奥出直人のJazz的生活

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秋吉敏子 ライブ  

2009年 10月 23日

10月20日 火曜日

秋吉敏子ライブ B♭ 

ジャズ音楽評論家の中川ようさんと秋吉敏子さんのジャズピアノソロライブに。ジョン・スウェッドJazz101で「ジャズは民族音楽として始まり、アメリカ文化の中心でアメリカを代表する大衆音楽となり、ラジオやジュークボックスで曲が流れていたかと思うと、あっというまにアバンギャルドとなり、再び少数派の音楽となり、世界中の知識人やヒップスター(気取りや)が聴くようになった。この変化がたったの50年で起こったのだ」と2000年に述べている。このようにジャズを考えたときに、最後の30年、つまり70年代から90年代にジャズがどのように展開してきたのかを知ることが非常に大切になる。そのときに非常に重要な音楽家が秋吉敏子さんなのだ。B♭で彼女のプロデューサーである岩崎哲也君に30年ぶりに再会。会いたいと最近思っていたのだが、どうも切っ掛けがつかめないまま時間が過ぎていた。中川ようさんのおかげで会うことが出来た。ようさん、どうもありがとう。下記は秋吉さんとようさん。



またこの夜のライブについても書いてくれた。下記がURL。


http://yonakagawa.com/diary/post-131.html


岩崎(以下敬称略)とは慶應高校の同級生である。慶應高校から文学部に進む学生は少なく、同じクラスからは岩崎と小池君と僕の3名だった。小池君とはあまり口を利いていなかったのだが、岩崎とは良く話をした。彼は高校の時から大変なレベルのジャズピアニストで、マイルス・デイビスのバンドでピアノを弾いていたビル・エバンスの演奏をコピーをしたり、チック・コリアリターン・トゥ・フォーエバーを出したときに、フェンダーのローズを弾きこなし、ピアノとエレピでは和声が違うのだと説明して見せた。ボサノバの曲を弾き語りしてパーティで女の子にもてることしか考えていないような慶應高校音楽野郎の中で、圧倒的に音楽性で際だっていた。大学に入った年は、慶應大学の学生運動で最後のロックアウトがあり、日吉では授業がなかった。僕は暇なのでアテネ・フランセに通って、分かったのか分かってないのかすら分からずに、デリダやフーコーの本を読んだりしていた。

僕はそのころスウェッドの本の影響もあってアメリカの黒人大学への進学を企てていた。同じ頃岩崎のお姉さんもボストンのニューイングランド・コンセルバトワールのパイプオルガン科に留学をした。留学先のAlabama州Talladega大学は黒人のためのリベラルアーツの名門で、多くの卒業生が東部の名門校の大学院に進学をしていた。当時の学長はブレイスウェイト氏でやはりニューイングランド・コンセルバトワールをでて、ドイツの大学に留学をして音楽博士をとった黒人の学者だった。岩崎のお姉さんの先生だった世界的なオルガン奏者である林 佑子氏も彼はよく知っていた。

1年留学して帰国したあとも、ジャズを聴いたり語ったりするだけではなく、岩崎のお姉さんが所属している小林道夫さんの古楽器のオーケストラのコンサートや、慶應のワグネルオーケストラで岩崎がチェロを弾いていたので演奏会に行ったした。岩崎はその頃作曲に興味を持ち高橋 悠治(たかはし ゆうじ)さんのところに習いに行ったりしていた。そんなことで高橋アキがエリック・サティを演奏する会にも出かけていった。1975年頃の話だ。コンピュータの可能性が現代音楽の動きに大きな影響を与えると共に、グローバリズムの影響で世界各地の音が「流通」を始めた。現代音楽をささえていた基盤が壊れ始めていた頃でもある。そんなときに岩崎がガンサー・シュラー Gunther Shuller の話を始めたのである。ニューイングランド・コンセルバトワールの学長であった。

ガンサー・シュラーは若くしてプロの音楽家として活動を始め、マイルス・デイビスのバンドでフレンチホルンでジャズを演奏したりしていた。1950年の頃である。クラッシクとジャズの技法を組み合わせて新しい音楽をつくろうと"Third Stream" と名付けた活動を行い、いくつかの作品をつくり、Ornette Coleman, Eric Dolphy, そして Bill Evansが演奏した。作曲家として非常にアクティブで180に及ぶ作品を書いている。この話も面白いのだが、なによりも特筆すべきは1968年にニューイングランドコンセルバトワールにジャズプログラムを作ったことである。ジャズが新しい音楽になろうともがいているときに、クラッシック音楽の名門音楽大学にジャズ科を作ったのである。いまではアメリカの大学教育のなかでジャズ研究と教育は不可欠であり、このことについてはいずれ詳しく説明したいが、ジャズを音楽として正面切ってとらえた初めての試みと言って良い。ジャズに関する本も次々と出版した。そのいくつかは翻訳されている。

ジャズをクラッシックや現代音楽を同列において、自在に批評していく。この流れは、シュラーの他には、Max HarrisonMartin Williamsがいる。こうしたJazz研究への入門がスウェッドのJazz101だ。そんなわけで、1970年代後半にガンサー・シュラーに傾倒したわけである。その後岩崎は全音に就職。僕は大学院に進み、フルブライト留学生として1981年にアメリカのワシントンDCに留学する。DCにあるスミソニアン研究所と連携してアメリカを研究する研究科のあるジョージワシントン大学で研究を始めた。

そのころ、ラジオでいきなり聴いたような聴いたことのないようなジャズのオーケストラの曲が流れた。1970年代、Martin Williamsはスミソニアン研究所でジャズの録音の体系化と歴史的に重要だと思われる曲の再演を立て続けに行っていた。そのためにthe Smithsonian Jazz Masterworks Orchestraを編成して、シュラーが指揮を担当していた。そしてデューク・エリントンが作曲して部分的にしか演奏されていないSnymphony in Blackの再現公演をしたのだ。その曲がNPR(ナショナルパブリックラジオ)から流れてきた。なかなかの衝撃であった。そして、そのあとシュラーがホストを務めるジャズのピアノの番組があることをみつけて、時々聴いていた。その番組でかれがラグタイムについて語っていた。スコット・ジョップリンの業績を再評価して、再演をしていたことも知った。この番組が切っ掛けになって、いくつか調査をおこない、資料をあつめた。これが僕の初めての長文の評論「黒人イメージの再発見」となり『中央公論』に発表した。(この辺りの研究は拙著『アメリカン・ポップ・エステティックス』(青土社)でまとめてあるので、興味のある方は読んでみて下さい。)

僕は日本に帰り、日本女子大で教える一方で、1988年から慶應大学のSFC創設の準備を手伝って、1990年、開設と共に助教授として勤め始めた。アメリカのアイオワ州のGrinnell大学でアメリカ文化史の教鞭をとったりもしたが、基本的にはSFCで新しい研究の方法と分野を試行錯誤して忙しく過ごしてきた。この頃に全音からクラウンに移ったという話を岩崎と電話でした記憶がある。

北島三郎など演歌歌手のレコード会社として知られるクラウンは1973年、溜池にCRS(クラウン・レコーディング・スタジオ)を作った。このスタジオで南こうせつ、大貫妙子、鈴木茂、坂本龍一、矢野顕子、松任谷正隆、細野晴臣などが録音をした。(書いていて懐かしいね。)岩崎はそこで1989年からプロデューサーとして活動を始める。LPからCDへとメディアがかわるなかで、クラウンは洋楽の部門を充実させたいと考えたのである。

さて、秋吉敏子さんであるが、ジャズが新しい音楽ジャンルとして全貌を現すのは1970年代からでありそのときに大きな役割を果たした一人が彼女なのだ。彼女の偉大さは僕たちが日本で聴いているとどうもぴんとこないところがある。それはジャズのうねりを共感する音楽的コンテキストに欠けているからである。そこを埋めてくれるのが岩崎が数年前にまとめた秋吉敏子『孤軍』という本である。この本を追いながら秋吉敏子の意味を探ってみたい。

ガンサー・シュラーの仕事として高く評価されていることの一つに1989年にLincoln Centerでチャールス・ミンガス Charles MingusEpitaphの再演がある。秋吉敏子は1962年、チャーリー・ミンガスのグループに入団して、ピアノを弾く。ミンガスは大曲を準備していた。10月12日、コンサートを開いたが、準備段階では10人編成だったバンドが30人にふくれあがり、譜面を渡されたが、皆なんだか分からない。ミンガスはアレンジャーの方法が間違っているという。譜面のやり直しをしたが間に合わない。というわけでさんざんたる結果になった。この時の曲エプタフを再演したのである。

その後秋吉敏子はルー・タバキンと結婚して、ニューヨークからロサンジェルスに移り、1974年、ビッグバンドを編成して「孤軍」を発表する。3万枚を売る大ヒットになった。1978年から日本、アメリカ、ヨーロッパツアーを行い、「世界の秋吉」と呼ばれるようになる。ダウンビート誌の評価も高くなり、1977年には最優秀レコードとして「インサイツ」が選ばれ、ビッグバンドは第2位、作曲第4位、編曲で3位となる。『孤軍』からこのあたりのところを引用すると、「ちなみにビッグ・バンドの一位はサド・ジョーンズ=メル・ルイス。二位の秋吉の次点はカウント・ベーシー。作曲は4位の秋吉の上は、一位、チャーリー・ミンガス、二位カーラ・ブレイ、三位、チック・コリア。編曲は一位ギル・エバンス、二位サド・ジョーンズ、三位の秋吉敏子の次点四位はカーラ・ブレイという、まさに身震いするような、凄い内容だ。」

1981年にはダウンビート誌で、読者人気投票ではビッグバンド、作曲、編曲で一位となり三冠達成をする。どの部門も圧勝であったというが、ふたたび『孤軍』から引用すると、「ビッグ・バンドの二位はカウント・ベーシー、3位はウディー・ハーマン、四位はサン・ラ(!)、作曲の二位はチック・コリア、三位はウェイン・ショーター(!)、編曲の2位はギル・エバンス、三位はクインシー・ジョーンズ(!)」だという。これは何とも凄い。1972年からの10年間、秋吉は42才から52才、まさに体力気力精神力のピークにあり、自分の作品しか演奏しないオーケストラを維持して演奏を続け、20枚のアルバムをだし、そのうち13枚がビッグバンドである。1982年10月、ふたたびニューヨークへ居を移すことになる。

ジャズオーケストラをニューヨークでつづけることはなかなか難しかったという。ロスではジャズミュージシャンがジャズを演奏する機会がすくなく、秋吉のオーケストラにはせ参じたが、ニューヨークではジャズミュージシャンは仕事が多くあり、ギャラも高いからだ。1989年に作曲の依頼を始めて受ける。福岡市からであった。現代音楽の作曲家のように委嘱されて曲をつくり、演奏で初演をする。そんななかで1990年、秋吉敏子がピアノアルバムを日本クラウンで作ることになる。プロデューサーは岩崎である。オーケストラの録音はアメリカで販売できる会社にこだわっていたが、ピアニストのアルバムはどこでもいいという柔軟な姿勢があったからだという。クラウンは流行歌中心だったが、CD時代になってより芸術性の高いアーチストをさがしていた。最初のアルバムは「四季」と「リマンバリング・バド」で後者はジャズチャートで首位になった。1991年には「シック・レディ」、1993年に「ディグ」、1994年に「ナイト・アンド・ドリーム」と続く。

LPからCDへとメディアを変えた音楽であるが、いままたメディアが変わろうとしている。クラウンは2008年に溜池のスタジオを閉鎖する。岩崎は仲間とCRSソングスという会社をつくり、午前中はスタジオに顔を出してあとは自宅のスタジオでしごとをしているという。「CDなんて一人で作ることが出来る時代になった。100人の人間を食べさせるビジネスではないのだ」と言っていた。まさにその通りだ。CDの登場と衰退の20年が彼のクラウンでの時代であり、僕も考えてみればパソコンの登場と衰退の20年がSFCの時代だったなあと思う。いま、KMDで教え始めて、つくずく時代は新しい局面に突入しているおもう。岩崎プロデュースの秋吉敏子さんのピアノCD発売が楽しみである。下記写真は秋吉敏子さん、岩崎、奥出。撮影は中川ようさん。



# by naohito-okude | 2009-10-23 07:42 | Jazzライブ | Trackback | Comments(0)

シンガポール文化事情  

2009年 10月 14日

10月11日 日曜日

The Sunday Timesシンガポールの新聞を読む。

いろんな記事があり、時事関連は追い切れないので自分の興味のあるところをつまみ読み。

"Ochard Rd's right up my alley"

シンガポールの新聞Straits Timesのコピーライターとして一年半前にロンドンから夫婦と小さな子供(三歳)と移り住んできたLiam O'brien氏のコラム。シンガポールのオーチャード通りのような中心地を歩いているとストリートライフがない。乞食や酔っぱらいや物売りがいない。それは新参者にとっては不思議に見える。その理由はどうであれ、この現象はいいことではないかと思える。公共の場所をリラックスして楽しく散歩できることは素晴らしいことなのだ。人もゆっくりと歩いている。街の雰囲気がとてもいい感じだ。

国民の自由や権利をめぐっていろいろと人権上の問題をおこしてきたシンガポールだが、豊かになってみると、公共空間の質を維持した効果が出てきていると言うことなのかもしれないが、本当の意味で質の高い生活を提供できるかはこれからが勝負になる。シンガポールのあり方に関しては注目しておきたい。

”Bright lights in Little India"

シンガポールのリトルインディアでのヒンズー教のお正月にあたるディパバリ(Deepaval)、光の祭りとも言われる、が行われたという記事である。

シンガポールはアメリカの中西部の高級ショッピングモールのようなビルを沢山建てて、そのなかは英語が中心である。だが、その一方で民族文化と母語を維持する政策も採用している。

以下、下記のWebを参考にしならが自分のコメントも混ぜて書いておく。

http://www.kirihara-kyoiku.net/peripatos/06/02.html

 現在、シンガポール国民の民族構成は、中華系76.5%、マレー系13.8%、インド系8.1%、その他1.6%(外務省ホームページ)となっている。1965年、長かった植民地支配を脱して、独立した共和国となったシンガポールは、複合社会を解体して、新しい国づくりをすることが求められることになる。そこで東南アジアの一国家としての主体性を強調し、中国人でもインド人でもないシンガポーリアンとしての統一意識を育成していく必要が生じたのである。 言語生活に関しては、英語、マレー語、タミール語、華語を平等に公用語としながら、実際上では英語を共通語とし、それに各人の母語を組み合わせる、現在まで続く2言語政策がとられるようになった。

英語が共通語であって母語ではない、という背景に異なる文化圏の人間がコミュニケーションする、という欲求がある。さらにリー・カンユーの哲学として、その英語も「英国の英語」や「アメリカの英語」であっては、その言葉を母語とする人間にかなわないだけではなく、その文化に植民地化されることになるという信念がある。したがって、英語ばかりの社会に思えるが、日常生活は母語であるそれぞれの言葉を使っている。

1965年にはかなり革命的だった「誰のものでもない、我々のための英語」というこの哲学は、英語のグローバル化が進行する中で、多様な英語がある、という認識が生まれてきている中で‘Englishes’として理解を得ている。コミュニケーションのための言語であるから、小学校4年生の時に試験を行い、その成績で能力別に振り分けている。すべての公立校が英語校となっており、母語、社会、道徳の授業を除いて、数学を含み基本的に授業は英語で行われているという。従って、週48〜49時限のうち7〜8割は英語で授業が行われていることになる。英語に早くならさないと授業に支障をきたすため、小学1年のときから英語に多くの時間が割かれているわけで、その成果は、TOEFLの平均スコアが254で、アジア各国の中でインドと並んで1位2位を争っている。小学校でこれだけの英語の学習をしていれば、中学校、高校、大学と学年が進むにつれて、英語の比重が高まるわけだから、英語教育の先進国と呼ばれるのは当然と言えば当然だろう。

だが、たかが254点である。昔のTOEFLスコアであれば600点を少し超えたくらい。日本人がアメリカの大学院に留学してどうにかついていけるかいけないかぐらい。しかし、これは実はいいことであり、英語は母語になっていない、ということだ。英語は母語ではない、という意識を国民に持たせている言語政策はさすがだと思う。

もっとも、シンガポールが世界経済に影響を与えるだけの力を持ち、国際舞台で自己表現をするようになり、再びコミュニケーション問題に直面している。国内の複数の文化を持つ人間に英語という共通語を与え、そこで教育をおこない、ビジネスを構築してきたわけで、その社会で通用する「英語」が世界舞台に飛び出したわけである。そこで2000年にシンガポール英語が外国人に通用しないとの理由で、学校では正しい『標準英語』を教えるべきだとするSpeak Good English Movementが政策として導入された。2001年後半には、政府は早くも、小学校、中学校両方の新しいシラバスを発表した。文法指導を徹底するようになった。

僕は慶應義塾大学の社会学研究科の大学院の修士の時に鈴木孝夫先生に薫陶を受けた。植民地支配から免れているという幸福をすてて、英語を学ぶことでみずから自己植民地化している日本の知識人を徹底的に批判した鈴木先生の議論は一方で言語学者としての圧倒的な語学力にも支えられていた。自己のプライドを失わないでかつコスモポリタンとして世界でコミュニケーションを行うにはどうしたらいいのか、を考え抜いて 「Englic」論を展開した。30年ほど前だったともうが、強烈な批判が世界中からくるとともに、よく言ってくれたという意見もあった。そのとき、先生が授業で何度も繰り返し言及していたのは、シンガポールの言語政策だ。リー・カンユーはイギリスの大学に留学したエリートだ。彼はイギリス人のように英語を話す必要はないと主張する一方で、多民族が共存する国家のコミュニケーションの言語として「英語」を選んだ。イギリス人のものではない「英語」である。これがEnglishesである。鈴木先生のEnglicと同じ主張だ。

いまシンガポール国立大学と慶應義塾大学が共同でつくった研究所Cuteセンターで大学院生や若手の研究者を教えているが、インド、マレーシア、中国本土、台湾、インドネシア、スリランカ、アメリカ合衆国などから来た学生に何かを教えるには英語を使わざるを得ない。だがそれはEnglicでいいのだ。その英語レベルはTOEFLで600点以上、感じとしては630点くらいにはなる。だがこれは母語ではないのだ。まあこの程度では母語になりえないけれど、しっかりとした母語があって、コミュニケーションとしての英語なのだ。その一方で母語を英語にしない言語政策もしっかりとおこなった。このしたたかな態度がいまのシンガポールを作り上げたと言える。

もちろん、シンガポールにはかなりの英語の達人がいるし、流れているテレビ番組などを聴くと母語としての英語だなというものも多い。英語が母語になっているシンガポール人はかなりいる感じがする。だが、このこととシンガポールでビジネスをすることは直接には関係していない。多くの要人が母語ではない英語で仕事をしている。多様な民族が一緒になってなにかをおこなうとき、誰のものでもない英語がいかにすばらしいか。鈴木先生が30年前に指摘したあるべき姿だと思う。

シンガポールの言語政策はもう一度大きく変わる予兆を見せている。北京語をもう一つのコミュニケーションの言語として使う可能性の検討が始まっているのだ。これについてもいつかここで書いてみたい。

さて、話をリトルインディアに戻そう。インド系の人たちが街を形成していてる。お祭りのイルミネーションが美しく、お店が遅くまで開き多くの人が訪ねたという。だが、今年は売り上げはあまり上がらなかったという。


http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Deepavali,_Little_India,_Singapore,_Oct_06.JPG

# by naohito-okude | 2009-10-14 17:36 | | Trackback | Comments(0)

ハブ空港  

2009年 10月 14日

10月10日  土曜日

シンガポール

7時40分すぎ 成田エキスプレスで成田空港へ。

品川駅はいろいろと変わって素敵なお店も多いが、成田エキスプレスの発車する横須賀線のホームは昔とあまり変わらない。下記は成田エキスプレスの写真。めずらしくもないが、たまには電車の写真も撮ってみる。



いまちょっと考えている仕事の関係もあってシートをよく見るが、イノベーションはなかなか難しいなあ。といってもこのままじゃあねえ。



新幹線もそうだけれど、重厚な皮の椅子、みたいなコンセプトをどうにかしたい。皮のソファーと木製のカードボード家具、まあいってみれば三越など老舗の百貨店の家具売り場の感じ。もうすこしモダニズムに踏み込めないだろうか。

空港は混んでいる。20歳の時に始めてアメリカに留学したが、出発は羽田空港。1年たって戻ってくるときが成田空港。ニューヨークから成田までのパンナムの直行便で初めてのジャンボだった。それから5年くらい前まで25年間、何度飛行機に乗ったことか。

9/11の事件が僕にとっては非常に大きなショックで、それ以来思うことがあって、どうしても出席する必要がある学会にたまに行くくらいで、他には海外に出ることを出来るだけ止めていた。ある学会で、MITの石井裕さんが僕の学生に「奥出さんは来ないの?」と言われたと学生が言ってくるくらい、できるだけ何処にも行かないようにしていた。

だが、最近シンガポールに行くようになって、半年で3回目。空港を眺めてみていると世界の飛行機の旅事情が大きく変わってきていることに気がつく。

基本的にスーツケースで移動することが大変。2つスーツケースをもって、空港におりてレンタカーを借りて、目的地に動く、といった旅行が普通だったが、今みていると、かんたんな機内持ち込みの鞄にすべて詰め込んで動くのがいい感じだ。いま普通に旅行している人からすると、何を今更かと思うかもしれないが、簡単に移動する、という感覚が楽しい。まるで船のクルーズにでかけるように重装備なのは良くない。

一番大きな違いは飛行機のチケットの発券だ。数年まえに電子チケットになった。もうチケットをなくす心配はない。デジタルでコンピュータ上にあるのだから。そして、手荷物だけだと自動的にチェックインできる。この簡便さも飛行機の意味を次第に変えていくだろう。



またラウンジの使い方も変わってきている。くつろいだり、お酒を飲んだりではなくて、仕事がしやすくなっている。だが5年前のビジネスビジネスといったかんじ(ビジネスセンターや会議室)ではなくて、無線LANと電源さえあれば何処でも仕事は出来る。軽装備なのだ。これもしばらく飛び回っていない僕としては新しい感じだ。今回はANAのラウンジだが、非常に仕事がしやすすかった。



ずいぶん前に関西新空港の最初の基本構想を作った人に話を聞いたことがある。世界はハブ空港をつくり、そこから小さな飛行機で移動するという考えが主流で、それにしたがってデザインをしていたのだが、当時の関西経済界の重鎮だった方が大反対をして、この最初の構想を作った人はあきれて、机をひっくり返して帰ったそうだ。未来を見る能力のない人間が意思決定をした罪は大きい。成田や大阪の新国際空港がハブとして機能していないのは確かだ。それでもまあ大分成田も変わった。ターミナルのデザインも随分と明るくて綺麗になった。

ANAに乗る。B767−300。



シンガポール行きは今回シンガポール航空が混んでいたのでANA。やはり、最近の仕事上の興味から、ビジネス席の椅子のデザインを見る。迷いがあって中途半端。迷う理由はよく分かる。いったい誰がのるのか、どのように機内で過ごすのか。重装備の船舶的なデザインから脱出しているのはよく分かるが、椅子として独立してしまって、なんというかとりつくところがない。また持ち込みの鞄をしまうところもない。お行儀良く座っていなくてはいけない。これで8時間のフライトはどうだろうか。このあたり、気になるところだ。



いま航空産業は大再編期にある。20世紀後半の世界のグローバル化はコミュニケーションのデジタルネットワークによる発達にくわえて、物流の大革命があった。それがコンテナ輸送だ。荷物がコンテナに詰められて世界中を移動する。荷揚げが機械化される。21世紀におこっていることは、Web2.0やクラウドコンピューティングによるデータサービスの発達と、人間の移動の変化である。簡単に言えば気楽に経済的に長距離を飛行機で移動する。この感覚は5年前ですら無かった。車輪の着いた荷物一つで世界中を気楽に動き回る。コンテナ船が20世紀後半をかえたように、簡便な航空旅行による人の流れが世界を変える予感がする。その意味でJALの経営危機は時代の流れかもしれない。

産経新聞のWebニュースで、下記のような記事があった。

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前原誠司国土交通相は14日午前、首相官邸で平野博文官房長官と会談し、羽田空港の国際ハブ(拠点)空港化や日本航空(JAL)の再建策について協議した。前原氏は羽田空港の国際ハブ化について「成田空港の機能を羽田に移すのではなく、成田も今まで以上に活用されるように努力していく」と重ねて説明した。

 羽田空港の国際ハブ化については、前原氏が13日に最優先で整備する考えを表明し、成田空港のある千葉県や関西国際空港のある大阪府から反発の声が上がっている。
 
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091014/plc0910141226008-n1.htm

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ハブ化を想定した空港計画をことごとくつぶしてきて、いまさらなにを、という感じだが、JALの破綻も含めて、航空業界の国際化を考えるいいチャンスだ。しかし、ハブ化というのは航空行政が深く関わってくるので、このあたりまで踏み込んでの話なのかな。羽田と大阪がハブ化するとかなり状況は変わると思う。

シンガポールのチャンギ空港はそうした時代を先取りした空港として有名だ。この空港についてはまた改めて記したい。羽田空港がこのような形で発展してハブ空港にならず、関西空港がハブになるチャンスをみずから放棄して、今の状態になっている。さあ、どうする?

空港は竹中工務店がゼネコンで非常に大きくかかわっているが、最近の改修で実際にデザインを担当している会社を挙げておく。彼らの仕事は面白いと同時に、こうした空港を設計できる能力をみにつけたデザイン事務所になってみたいものだ。エンジニアとデザインとサービスが統一された空港や建物はまだまだ開発の余地のある分野である。デザインを担当した会社を挙げておく。いずれ詳しく検討したい。

第1ターミナル改修デザイン担当

http://www.woodhead.com.au/

http://www.a61.com.sg/

第2ターミナル改修デザイン担当

http://www.gensler.com/

第3ターミナル担当

http://www.som.com/content.cfm/changi_international_airport_terminal_3

# by naohito-okude | 2009-10-14 16:18 | デザイン | Trackback | Comments(0)

都市と21世紀の産業の形  

2009年 10月 13日

10月9日 金曜日

森ビルで勉強会

高橋潤二郎先生主催で六本木ヒルズのライブラリーのある49階へ。NTTドコモSさん、早川書房juiceの担当の小都さん、アカデミーヒルズのNさん、Sさんとメディアの方向性や都市生活のあり方についてのお勉強会。2時間30分ほど議論をする。途中で石井威望先生がちょっとだけ顔を出されたのでご挨拶。ミーティングの後『デザイン思考の道具箱』を作ってくれた早川書房の小都さんとDocomoのSさんと喫茶店でコーヒーを飲みながら、雑談。小都さんにそろそろ『デザイン思考の道具箱2.0』を出したいという話と、彼が最近編集長をしている新書Juice向けに、に売れそうにもないけど、「実践的文章読本」というテーマで書きたいとおもっているんだけどという話をする。売れそうにもないというのは、新書のHow To本は出来ないくらい難しいことを誰でも出来るように書くことが主流だから。誰でもしっかりとした文章を書くことが出来るようにはなるけれど、その技法を身に付けるのは大変、だから手取り足取り教えます、という誠実な文章読本を書きたいと思っているので、ちょっと相談。

友人と夕食
新丸ビルで友人と6:30分から会食。100年近い歴史をもつ関西の会社の3代目で、今回、会社の主な機能をアジアに移すという。もう日本では経済的に成り立たないという。日本は開発も工場も整理する。すると経営的には成りたつ。これは空洞化といわれるが、日本にはしっかりとした能力のある人間が残る。なので、そのあと何かしっかりしたことを日本でしたいと雑談。いまの開発を海外に出せば、次のことをする余力はある。このあたり、友人の会社だけではなくて、パナソニックトヨタもここが勝負のポイントだと思う。かなり高度なエンジニアリング力も日本特有のものではなくなっているのだ。だとすればその先を日本で積極的に展開すればいい。高度なエンジニアリング力を活用する場所を変えるのだ。このイノベーションの方向変更がいまの日本では非常に難しいが、意識の問題でやればどうってことはない気がする。彼の会社も規模は小さいがニッチェでは世界有数の能力をもっているのでこうした会社が魅力的になる時代になって欲しい。


お店はもう10年以上ひいきにしている恵比寿笹岡が最近出したセコンド。値段は安いが、このフロア全体が庶民的な感じのお店がいっぱいある。丸ビルの高いお店があるところとはとはちがった感じ。友人との雑談の結論はとても面白い。うまくいけば、差し障りのない範囲で僕の次の本『デザイン思考2.0』で紹介しようと思う。

# by naohito-okude | 2009-10-13 07:33 | ミーティング | Trackback | Comments(0)

Softwind 高木里代子ライブ  

2009年 10月 12日

10月8日 木曜日

Softwind 高木里代子ライブに。Softwindは昔は別の名前のジャズライブの場所だったが、最近オーナーが変わった。

http://www.softwind.jp/

高木里代子さんはここでジャズのライブをよくしているのだが、今日はICJOでの出演。クラブとは違う環境でのハウス音楽。ピアノやキーボードを身近に聞くことが出来て楽しかった。

メンバーは牧野雅己(DJ) 高木里代子(p) 木下るり(vln) 

http://www.icjo.net/pc/top/top.html

お客はハウス音楽のキーボードとしての彼女のファンで慶応大学体育会アメリカンフットボール選手でいまは都市銀行に勤めている二人組をのぞいては、ジャズピアニストとしての高木里代子のファンが中心で、クラブとは縁のない感じ。お店は一杯になった。演奏は僕的にはとても良かった。KMDの同僚のエイドリアン・チオクさんを誘って一緒に行った。高木さんとツーショットを取った。鼻の下が大分長いね。



エイドリアンはハウスミュージックが好きで、自分でもDJをするという。なのでとても楽しんだようだ。DJがかけたあるLPを聞いてエイドリアンは「デトロイトテクノだ」と言う。詳しい。

そのあと残った人で集合写真。



そのあとDJの牧野君がオーナーをしているソノラに。おもしろかった。

http://sonora.in/sonora/dj/dj.html

80年代にテクノなどいろいろと新しい動きがあって、最後にきたのがハウスだ。80年代に何があったのだろうか?このあたり僕は前半はアメリカの大学院に留学していたのだが、帰ってきてからはテクノとワールドミュージックの時代だ。なんだかいろいろ思い出してきた。いま手元にないが、『現代思想』の別冊やFM東京でこの辺りのことを書いたりしゃべったりしたことがあるなあ。芝浦のGOLDの音楽やしつらえと、バブルと、テクノとワールドミュージック。いずれにしても、楽しい夜だった。僕も論じてばかりではなくて、一緒に演奏しようかな。

しかし、チック・コリヤウェイン・ショーターのあと、ジャズはどうすればいいのか。これは結構避けてきた大きな問題。古いジャズばかり演奏していてはだめなんだよね。

思い出しついでに、1974年、大学3年生の時僕はアメリカはアラバマ州のTalladega Collegeというリベラルアーツの大学に1年留学した。ここは人種を問わない。黒人がつくった黒人のための大学である。かつては大名門だった。 他に大学に行けないのでここで学んで北部の大学の大学院に進学したりした。Afro-American Anthropologyという論文集を読んで感動して、留学することにしたのだ。Norman E. WhittenJohn F. Szwed が編集で1970年の出版だ。 John F. Szwedの本はその後も僕は読み続けていて、高木里代子のジャズをこれから考えていくときに何度か登場すると思うが、まあ今回は触れないでおこう。

オバマ大統領が登場して、黒人問題をポジティブに議論することは何の問題もないが、35年前、黒人の文化をポジティブに議論すると人種差別主義者のように社会科学の研究者の中では言われていた。「黒人問題」は社会の不正がうみだしたネガティブなものでありそれを是正することが大切だ、という議論が中心であり、黒人問題は白人問題であり、白人が変わるべきだというスウェーデンの経済学者で1974年にノーベル賞も受賞したグンナー・ミュルダール(Gunnar Myrdal)の意見がせいぜいであった。だが黒人の生活を民族誌的手法で記録する研究者の中からいまの黒人の文化は非常に価値があるという動きが出てきたのである。このパイオニアがSzwedで、1980年代始めにはYale大学の教授になって、アフロアメリカ文化と音楽の研究を続けた。僕は黒人文化を民族誌的に研究するという点にとても魅せられて、黒人大学に留学するという冒険に出たのだ。

そこで出会ったものは白人になりたい黒人、アメリカ社会を攻撃する黒人、アフリカからの留学生にくわえて、アメリカの黒人文化をみにつけている黒人たちだった。彼らは「ファンキー」なのだ。また1974年にはすでにファンクバンドが登場していた。白人・黒人混成バンドスライ&ザ・ファミリー・ストーンである。オハイオ・プレイヤーズコモドアーズアース・ウィンド・アンド・ファイアーなどがTalladega大学の週末のパーティでがんがんかかっていた。リズムは裏打ちで16ビート。ベースのうねりとギターのカッティングが特徴だ。また非常に洗練されたボーカルが加わるところも特徴で、ファルセットをつかって歌っていく。クインシー・ジョーンズマイケル・ジャクソンをプロデュースして大体音楽的な枠組みは固まった。

さて、ファンキーという視点(いや、聴く耳だな)をもつと、つまり、ジャズはファンキーでなければならないとすると、ダンス音楽であることをやめたビーパップはどうなのか、という話になる。だがディジー・ガレスピーですら、踊りがなければジャズじゃないといっているわけで、ファンキーな要素がないジャズは意味がない。マイルス・デイビスはこの問題を考えて活動を続けてきた。これに関してもJohn Szwedなどの本を参考に具体的に書き出すときりがないのでこのくらいにして、でチック・コリアハービー・ハンコックウエイン・ショーターである。チック・コリアは1971年に、ベーシストのスタンリー・クラークらとともに、リターン・トゥ・フォーエヴァー(Return To Forever)というバンドを作り、ECMレコードからアルバムReturn to Foreverを発表する。ハービーハンコックもエレクトリック楽器とフュージョンに向かい始める。フュージョンのコンセプトでジャズとファンクを結びつけたが、問題は結びつき方だったと思う。ジャズがポップミュージックからシリアスミュージックに変わって聴衆を失っていたときに、ポップミュージックからジャズに行くか、ジャズがポップミュージックの歩み寄るかで出来る音楽は大分変わる。ジャズマンなのにポップスからジャズに接近するような作品をプロデューサーに作らされた痛々しいLPが多いのもこのころだ。

こんな手詰まり感をものともせず、あたらしい音楽を探しかつ作り続けてきたのが80年代90年代のDJたちだったと思う。ごりごりの主流派からは低く評価されていたJazz演奏者のLPをリミックスしたりファンクの精神でテクノを行ったりといろいろしていたが、どこまでいってもファンクがある。プリンスもそうだ。ここを吸収しつついろいろな音楽と混じっていく。それが21世紀のジャズなのだ。この話はこのくらい。80年代、90年代、おもしろかったけど、70年代の半ばまでに起こったシリアスな音楽の問題を継承できなかったのが20世紀後半でもあるので、21世紀にはこのあたりをしっかりと考えた音楽が出てくるだろうと楽天的に考えている。

# by naohito-okude | 2009-10-12 20:03 | Jazzライブ | Trackback | Comments(0)

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