哲学するための多言語学習日記 第1週
2010年 09月 07日
哲学するための多言語学習日記 第1週
昨年から何度か調整してきた多言語学習であるが、どうにかペースにのりそうなので、暫くblogに書いてみることにする。
本blogでは哲学するための多言語学習について実践的に考えてみたい。西洋哲学を学び東洋哲学を知る。21世紀グローバル化が進む中、一体僕たちはいや、僕はどう生きていくべきなのか、今ある問題をどのように考えていけばいいのか。数ある哲学書はそうした問題に適切に答えてくれる。多くの哲学者が人生をかけて考え抜いた哲学書はなによりもの宝だ。
西洋哲学の大きな流れ、とくに20世紀後半に登場した反哲学の流れを勉強することは日本語でも可能だ。僕が大学生の時から親しんだ木田元氏は魅力的な哲学書を書いている。また同年代の岡田温司氏はフランス現代哲学のあと思想界を引っ張ってきたイタリア哲学について分かりやすく体系立てて紹介し、必要な翻訳を提供している。また多くの哲学は英語で読むことが出来る。だが、英語に紹介されている思想だけではいま直面している問題を考えるにはちょっと足りない感じがしている。
大学院に入ったばかりの頃、師匠である鈴木孝夫氏に、哲学を勉強するにはギリシャ語やラテン語が必要なのではないかと聞いたことがある。そうか、では聞きにいこう、と当時慶應大学でラテン語を教えておられた藤井昇先生の処に連れて行かれた。「で君は何が学びたいのか」と聞かれたので社会や文化の仕組みを調べてみたいとこたえたら、「ならギリシャ語やラテン語を勉強する暇があったら、英語で哲学者の本を読みなさい。ラテン語を勉強することは無駄です。必要なことは全部英語で読める」とおっしゃった。
で勉強しなかった。フランス語はまあ苦手ではなかったので、ベルグソンの『笑い』をフランス語で読み切って大学院の入試に備えたりした。だが、英語圏で博士号を取り、とくに国際的な活動をすることもなく慶應大学で教鞭をとり、コンピュータに夢中になり、英語だけで世界をみて、30年になる。フランス語はすっかり忘れた。その間日本の哲学者の語学能力は向上して多くの良書を日本語で読むことが出来た。
コンピュータと思考のメカニズムに関しては大分早い時代から刺激を受けて、大学時代に夢中になっていたフランスのデコンストラクション哲学との関係にも影響をうけ、井筒利彦とデリダのやりとりに影響を受けて『思考のエンジン』を書いた。また、とくにここ10年、現象学をデザイン手法に取り入れた研究を行ってきた。哲学者ではないが、哲学とは常に関わってきたわけだ。だが、英語で議論されている哲学を参考に自分の世界を構築していく作業もなんだか先がない感じになってきた。
グローバル化するなかで母語ではない英語をつかってコミュニケーションを行い、研究をする中で、それ故に気がついてきたところがある。それは英語ではすくいきれない世界があることだ。その世界に気がつかせてくれたのはグローバル化した英語のおかげだ。だが、コミュニケーションのための英語によってアクセス可能になった英語ではコミュニケーションできない世界、そこに異邦人として紛れ込み文化の違いに幻惑されて新しい哲学の可能性を探していきたい、と思い始めた。
本書ではイタリア語、フランス語、ドイツ語、ラテン語、ギリシャ語、と独学していく。並行して英語の上級への挑戦も行っていく。基本的には哲学の本ではなくて語学独学の書である。また言語の達人を目指す本ではない。55歳を過ぎてからの外国語学習だ。そんなに上手くなるはずもない。だが世界は確実に広がるはずだ。メディア技術の発達により、音声教材が充実した。それによって、多言語世界は語学の天才だけのものではなくなった。理屈はこのくらいとして、始めるとしよう。
第1週
2010年8月31日(火曜)
今日が多言語学習第1日目。
イタリア語
イタリア語は過去に学んだことがないので、この段階は耳をつくる。 外国語の学び方はいろいろある。だが、西洋語を学ぶ最良の方法は音から入ることだ。ローマン・ヤコブソンは音韻論を確立した大家だが、人間が言語に用いている音は単独に存在しているわけではなく、相互に関係して一つの体系をなしていると述べた。この発見はたいしたもので、国際発音記号(IPA: International Phonetic Alphabet)をみるといつも感心する。人間は確かに音韻を意識して発音をしている。クロード・レヴィ=ストロースはこれを大発見と称えると共に、『構造人類学』で人間の文化の認識も音韻論のように構造化されていると主張した。そんなわけないだろう、現象はもっと多様で豊かだと批判をしたのがジャック・デリダである。彼は『グラマトロジー』でレヴィ=ストロースを切って捨て、ついでにヤコブソンもロゴス中心主義者として批判した。システムで抽出されていない状態の表現をデリダはエクリチュールと呼んだのだ。
僕は基本的にはデリダに影響されて哲学を学び始めた。このあたりは『思考のエンジン』に詳しいが、だからといって語学学習においてヤコブソンの考えを否定しているわけではない。コミュニケーションに使う言語の音は確かに構造化されている。とくに西洋語ではそれが顕著だ。その音をアルファベットで表記したことには相当無理がある。だがそのアルファベット表記でいわゆる哲学的認識が可能になったということも事実だ。さらにこの構造を意味に展開するに当たっては結構無茶な感じがする。ここには何度も戻っていくのでいまはこのくらいにしよう。
語学の教育方法はいろいろな流れがあり、これも追々紹介するが、いわゆる初級の語学書をみると簡単な挨拶から始まるものが多い。だが研究のための語学習得としては、これは遠回りだ。挨拶は結構難しく、それを母語とするひとにとっては当たり前でも、外国人にとっては難しい。挨拶や簡単なやり取りを暗記すればそれっぽくコミュニケーションは成り立つが、それから先には進まない。なので初級の教科書を選ぶときには工夫が必要である。初級文法にCDの組み合わせがいい。音・文法・語彙の順番で勉強を進めるのだ。会話の入門書から外国語を学ぶことは実はとても難しい。
耳できいて音になれる。これが大事だと思う。というわけで、いくつかある語学入門書から『イタリア語初歩』を選んだ。CDをリップしてiTuneに入れる。頭から聞いていく。1回聞くと1時間。少し前から、気が向いたときに聞いていて、今日で5回めだが、音が大分なじんできた。
フランス語
フランス語は37年前、高校3年生の時に学び始めた。大学に入ると最後の学生運動で大学がバリケードで封鎖されており、することがなかったのでアテネフランセに通った。そこでいろんな奴に会い、いろんな事を知った。語学だけではなくて伊丹十三のエッセイを知ったのも、『日常生活の冒険』のなかのヘンリー・ミラーの小説本を半分に折るひみこについて言及しながら大江健三郎を語ったのも、フランスの数学者グループ「ブルバギ」を知ったのもアテネフランセ時代だ。中学校の3年生くらいから大江健三郎を読み、フランス「文学」や哲学に親しみがあった。高校2年生の頃にはレヴィ=ストロースとフーコーが日本に紹介された頃である。外国への留学は船で行っていた時代よりはましだったがそれでも社会的にも経済的にもなかなか難しくて、留学生試験に受かることが普通の学生にとっては留学の唯一の方法だった。フランス政府給費留学生とか産経スカラシップとかが主な奨学金だった。アテネフランセにはそうした野心に満ちた青年が何人かいた。
ここでフランス語は大分勉強したが、26歳でアメリカに留学して使わなくなり、さっぱりと忘れてしまった。過去25年くらい、忘れてしまうのはもったいないなあと思って何度か教科書をやってみたがなんだかめんどくさくてすぐに放り投げてしまった。語学の教科書は練習問題があって、基本的にはパターンプラクティスで勉強させる方法を相変わらず踏襲しており、教科書は厚いが学習の進捗は遅々としている。
メルロー・ポンティという哲学者がいる。日本でも研究者が多いフランスの現象学者だ。僕はコンピュータを使ったインタラクションデザインを研究している。現象学的設計論と呼んでいるが、要するに人間が身体の延長として自然に感じることが出来る「道具」をコンピュータをつかってプログラムすることで作るということである。この分野を始めたのはスタンフォード大学のウィノグラードという人で彼はハイデッガーの現象学を用いて新しい設計手法を提唱した。彼が援用したハイデッガーは、カリフォルニア大学の哲学者であるドレイファスが英語にしたものである。ドレイファスのハイデッガー解釈に関してはいろいろな立場があるようで、日本ではほとんど無視、の状態だが、コンピュータが作り出す環境に人間が住むことが出来ないことを現象学の立場から批判する面白い学者だ。コンピュータに内在する問題ではなく、それはコンピュータの使い方によるのだ、というのが現象学的設計論の立場である。この話は別のところで詳しくするとして、ハイデッガーの現象学はいま僕たちがパーソナルコンピュータを使っているときのインターフェイスの設計の基本理論として使われているが、そのことを特に気にしてもいない。
いまコンピュータが画面とキーボードである時代がおわり、コップや机やドアや窓になってしまう時代が来ている。道具と言うより生活環境になろうとしている。そのときに人間と道具の問題を考えて哲学の流れを大きく変えたハイデガーの思想だけだとすこし、というかかなり不足するところがある。ものを作る、人間が世界を構築する、その方法が変わっているのだ。この世界について最初に考え始めたのがハイデガーの影響をうけたフランスの哲学者達である。とくに身体と知覚の問題について深く展開してきたのがメルロ・ポンティだ。日本では木田元氏達の翻訳が昔からあり、よく知られている哲学者だ。英訳も多い。
だが、もう一つぴんとこない。じゃあフランス語で読んでみようか、というのが再学習の動機である。比較的慣れている外国語なので、入門の教科書をいくつか比べてみた。最終的に『フラ語入門、わかりやすいにもホドがある』清岡智比古を選択した。ちょっとふざけたタイトルだがとても良い。同じ著者が出している教科書よりこちらがいい。CDは一時間ちょっと。いままで40回くらい繰り返して聞いて、大分音にはなれた。ちなみに音を学習するときに初級の文法書を使うのが大切である。会話とか単文だと情報量が多くてめんどくさい。簡単な文章から徐々に難しい文章へ、ドリルをしながら積み上げていく方法ではいつまで経っても出来るようにならない。音が理解できるようになったら初級文法を一気に終了させるのがいいのだ。で今日から文法理解へ。こればかりは覚えるしかない。なので日本語をノートに書き出してそれをフランス語で言ってみる。
さて、語学においては文法能力を頭に作ることが大切である。言語学者チョムスキーがコンピテンスと呼んだ能力だ。問題は大人になってからその能力を作ることが出来るか、である。英語を小学生から始めた方が良い、という文部省の政策などは大人は外国語を学ぶのが難しい、という考えに基づいている。おもしろいことに、この説に反対する人には英語の達人といわれている人がおおい。たとえば鳥飼玖美子氏などである。母語は小さいときから身に付けるから母語だ。だが人間は母語以外の言語を身に付けることが出来る。流暢に英語を話す日本人は珍しくない。人間の持つ外国語学習能力は非常に不思議だと思う。ここがわかっている英語の達人達は母語をしっかりと作ってから外国語を学ぶという方法を支持しているのだ。また半端なことでは外国語を本当にマスターすることは出来ない。それを知っているのも達人達だ。
言語を学ぶときに言語の置かれている社会的政治的経済的な要素が深く関わってくる。この分野は社会言語学といわれる。英語をとってみても、長い間、西洋人になりたいという気持ちと英語学習が結びついている。あるいは植民地化されて支配され言語を強要されることもある。支配する者とされる者の間でつかっている語彙が違うということもある。この問題とコンピテンス獲得問題には何の関係もないと僕は思っている。コンピテンス獲得はあくまでも人間の能力の問題であり、社会的な背景はその能力を獲得する環境や条件に大きく関わってくる。めんどくさい言い方をしているが、ようするに、だれでも大人になっても、言語能力をつけることは出来る、ということを言いたいのだ。そのレベルは多様だ。テニスでいえばウィンブルドンで試合をする人もいれば、週末に友達と試合を楽しむ人もいる。どちらもテニスである。同じ事である。
というわけで、必要以上に完成度をもとめないで、ゆっくりと文法能力を付けていく。音が単語をつくり、単語が組み合わさって突然全体性を獲得していきた文章となる。聞いたり読んだりしたときに文章が文章として成り立っていることが分かるようになる、それが言語能力、コンピテンス、である。それを作る。これがフランス語の当面の課題である。
英語
英語は語彙を増やす。これにつきる。どうするか方法を模索中だ。
2010年9月1日
今日が第2日目。
イタリア語
6回目 日吉の行き帰りで終了。文法的なところが気になり始めた。大分なれてきた。30回くらいまでこのままで続けよう。
フランス語
例文を日本語とフランス語で書き写す。初等文法はドリルをやっては非効率だ。いわゆる学校文法の規則には普遍性がない。それをパターン学習方法で繰り返して暗記してもあまり意味がない。それよりは文法で説明できる外国語の文章がそれにそうとうする日本語をみると口をついて出てくるまで鍛えた方が良い。Lesson10まで日本語と相当するフランス語をノートに写す。これを繰り返し読んでいく。暗記をむりにしない。communicative competenceを作る方法として知られている方法だ。何度も繰り返しているうちに覚えるだろう。そのときが分かったときだ。
英語
単語を強制的に増やす方法は文脈に沿って覚える方法と単語帳を使って覚える方法がある。実際はその併用が好ましいと言われている。同じ単語が違う文脈で出てきたときに意味が分かる必要があるからだ。また単語帳だけで覚えていくのは退屈で大変。このあたりを工夫してみようと2種類の教材を注文してみた。
2010年9月2日
今日が第3日目。
イタリア語
7回目。なれてきた。録音に会わせてシャドーイングをしてみる。割と楽になっている。
フランス語
休み
英語
ボキャブラリービルディング用の本、到着。A Kaplan SAT Score-Raising Classic The War of the Worlds by HG Wells. 右頁にテキスト、左頁に単語と発音と意味の説明。まずはこの一冊から単語帳を作ってみよう。
2010年9月3日
今日が第4日目。
イタリア語
8回目。
フランス語 休み
英語
休み
ギリシャ語とラテン語のCD付き教科書が届いた。
2010年9月4日 土曜日
今日が第5日目。
イタリア語 休み
フランス語 休み
英語 休み
2010年9月5日 日曜日
今日が第6日目。
イタリア語 休み
フランス語
ノート レッスン11
英語
SAT The War of the Worlds Chapter4 まで読了
2010年9月6日 月曜日
今日が第7日目。
イタリア語
9回目
フランス語
ノートLesson 13 まで
英語
SAT The War of the Worlds Ch1 単語帳に転記。
というわけで第1週終了。
昨年から何度か調整してきた多言語学習であるが、どうにかペースにのりそうなので、暫くblogに書いてみることにする。
本blogでは哲学するための多言語学習について実践的に考えてみたい。西洋哲学を学び東洋哲学を知る。21世紀グローバル化が進む中、一体僕たちはいや、僕はどう生きていくべきなのか、今ある問題をどのように考えていけばいいのか。数ある哲学書はそうした問題に適切に答えてくれる。多くの哲学者が人生をかけて考え抜いた哲学書はなによりもの宝だ。
西洋哲学の大きな流れ、とくに20世紀後半に登場した反哲学の流れを勉強することは日本語でも可能だ。僕が大学生の時から親しんだ木田元氏は魅力的な哲学書を書いている。また同年代の岡田温司氏はフランス現代哲学のあと思想界を引っ張ってきたイタリア哲学について分かりやすく体系立てて紹介し、必要な翻訳を提供している。また多くの哲学は英語で読むことが出来る。だが、英語に紹介されている思想だけではいま直面している問題を考えるにはちょっと足りない感じがしている。
大学院に入ったばかりの頃、師匠である鈴木孝夫氏に、哲学を勉強するにはギリシャ語やラテン語が必要なのではないかと聞いたことがある。そうか、では聞きにいこう、と当時慶應大学でラテン語を教えておられた藤井昇先生の処に連れて行かれた。「で君は何が学びたいのか」と聞かれたので社会や文化の仕組みを調べてみたいとこたえたら、「ならギリシャ語やラテン語を勉強する暇があったら、英語で哲学者の本を読みなさい。ラテン語を勉強することは無駄です。必要なことは全部英語で読める」とおっしゃった。
で勉強しなかった。フランス語はまあ苦手ではなかったので、ベルグソンの『笑い』をフランス語で読み切って大学院の入試に備えたりした。だが、英語圏で博士号を取り、とくに国際的な活動をすることもなく慶應大学で教鞭をとり、コンピュータに夢中になり、英語だけで世界をみて、30年になる。フランス語はすっかり忘れた。その間日本の哲学者の語学能力は向上して多くの良書を日本語で読むことが出来た。
コンピュータと思考のメカニズムに関しては大分早い時代から刺激を受けて、大学時代に夢中になっていたフランスのデコンストラクション哲学との関係にも影響をうけ、井筒利彦とデリダのやりとりに影響を受けて『思考のエンジン』を書いた。また、とくにここ10年、現象学をデザイン手法に取り入れた研究を行ってきた。哲学者ではないが、哲学とは常に関わってきたわけだ。だが、英語で議論されている哲学を参考に自分の世界を構築していく作業もなんだか先がない感じになってきた。
グローバル化するなかで母語ではない英語をつかってコミュニケーションを行い、研究をする中で、それ故に気がついてきたところがある。それは英語ではすくいきれない世界があることだ。その世界に気がつかせてくれたのはグローバル化した英語のおかげだ。だが、コミュニケーションのための英語によってアクセス可能になった英語ではコミュニケーションできない世界、そこに異邦人として紛れ込み文化の違いに幻惑されて新しい哲学の可能性を探していきたい、と思い始めた。
本書ではイタリア語、フランス語、ドイツ語、ラテン語、ギリシャ語、と独学していく。並行して英語の上級への挑戦も行っていく。基本的には哲学の本ではなくて語学独学の書である。また言語の達人を目指す本ではない。55歳を過ぎてからの外国語学習だ。そんなに上手くなるはずもない。だが世界は確実に広がるはずだ。メディア技術の発達により、音声教材が充実した。それによって、多言語世界は語学の天才だけのものではなくなった。理屈はこのくらいとして、始めるとしよう。
第1週
2010年8月31日(火曜)
今日が多言語学習第1日目。
イタリア語
イタリア語は過去に学んだことがないので、この段階は耳をつくる。 外国語の学び方はいろいろある。だが、西洋語を学ぶ最良の方法は音から入ることだ。ローマン・ヤコブソンは音韻論を確立した大家だが、人間が言語に用いている音は単独に存在しているわけではなく、相互に関係して一つの体系をなしていると述べた。この発見はたいしたもので、国際発音記号(IPA: International Phonetic Alphabet)をみるといつも感心する。人間は確かに音韻を意識して発音をしている。クロード・レヴィ=ストロースはこれを大発見と称えると共に、『構造人類学』で人間の文化の認識も音韻論のように構造化されていると主張した。そんなわけないだろう、現象はもっと多様で豊かだと批判をしたのがジャック・デリダである。彼は『グラマトロジー』でレヴィ=ストロースを切って捨て、ついでにヤコブソンもロゴス中心主義者として批判した。システムで抽出されていない状態の表現をデリダはエクリチュールと呼んだのだ。
僕は基本的にはデリダに影響されて哲学を学び始めた。このあたりは『思考のエンジン』に詳しいが、だからといって語学学習においてヤコブソンの考えを否定しているわけではない。コミュニケーションに使う言語の音は確かに構造化されている。とくに西洋語ではそれが顕著だ。その音をアルファベットで表記したことには相当無理がある。だがそのアルファベット表記でいわゆる哲学的認識が可能になったということも事実だ。さらにこの構造を意味に展開するに当たっては結構無茶な感じがする。ここには何度も戻っていくのでいまはこのくらいにしよう。
語学の教育方法はいろいろな流れがあり、これも追々紹介するが、いわゆる初級の語学書をみると簡単な挨拶から始まるものが多い。だが研究のための語学習得としては、これは遠回りだ。挨拶は結構難しく、それを母語とするひとにとっては当たり前でも、外国人にとっては難しい。挨拶や簡単なやり取りを暗記すればそれっぽくコミュニケーションは成り立つが、それから先には進まない。なので初級の教科書を選ぶときには工夫が必要である。初級文法にCDの組み合わせがいい。音・文法・語彙の順番で勉強を進めるのだ。会話の入門書から外国語を学ぶことは実はとても難しい。
耳できいて音になれる。これが大事だと思う。というわけで、いくつかある語学入門書から『イタリア語初歩』を選んだ。CDをリップしてiTuneに入れる。頭から聞いていく。1回聞くと1時間。少し前から、気が向いたときに聞いていて、今日で5回めだが、音が大分なじんできた。
フランス語
フランス語は37年前、高校3年生の時に学び始めた。大学に入ると最後の学生運動で大学がバリケードで封鎖されており、することがなかったのでアテネフランセに通った。そこでいろんな奴に会い、いろんな事を知った。語学だけではなくて伊丹十三のエッセイを知ったのも、『日常生活の冒険』のなかのヘンリー・ミラーの小説本を半分に折るひみこについて言及しながら大江健三郎を語ったのも、フランスの数学者グループ「ブルバギ」を知ったのもアテネフランセ時代だ。中学校の3年生くらいから大江健三郎を読み、フランス「文学」や哲学に親しみがあった。高校2年生の頃にはレヴィ=ストロースとフーコーが日本に紹介された頃である。外国への留学は船で行っていた時代よりはましだったがそれでも社会的にも経済的にもなかなか難しくて、留学生試験に受かることが普通の学生にとっては留学の唯一の方法だった。フランス政府給費留学生とか産経スカラシップとかが主な奨学金だった。アテネフランセにはそうした野心に満ちた青年が何人かいた。
ここでフランス語は大分勉強したが、26歳でアメリカに留学して使わなくなり、さっぱりと忘れてしまった。過去25年くらい、忘れてしまうのはもったいないなあと思って何度か教科書をやってみたがなんだかめんどくさくてすぐに放り投げてしまった。語学の教科書は練習問題があって、基本的にはパターンプラクティスで勉強させる方法を相変わらず踏襲しており、教科書は厚いが学習の進捗は遅々としている。
メルロー・ポンティという哲学者がいる。日本でも研究者が多いフランスの現象学者だ。僕はコンピュータを使ったインタラクションデザインを研究している。現象学的設計論と呼んでいるが、要するに人間が身体の延長として自然に感じることが出来る「道具」をコンピュータをつかってプログラムすることで作るということである。この分野を始めたのはスタンフォード大学のウィノグラードという人で彼はハイデッガーの現象学を用いて新しい設計手法を提唱した。彼が援用したハイデッガーは、カリフォルニア大学の哲学者であるドレイファスが英語にしたものである。ドレイファスのハイデッガー解釈に関してはいろいろな立場があるようで、日本ではほとんど無視、の状態だが、コンピュータが作り出す環境に人間が住むことが出来ないことを現象学の立場から批判する面白い学者だ。コンピュータに内在する問題ではなく、それはコンピュータの使い方によるのだ、というのが現象学的設計論の立場である。この話は別のところで詳しくするとして、ハイデッガーの現象学はいま僕たちがパーソナルコンピュータを使っているときのインターフェイスの設計の基本理論として使われているが、そのことを特に気にしてもいない。
いまコンピュータが画面とキーボードである時代がおわり、コップや机やドアや窓になってしまう時代が来ている。道具と言うより生活環境になろうとしている。そのときに人間と道具の問題を考えて哲学の流れを大きく変えたハイデガーの思想だけだとすこし、というかかなり不足するところがある。ものを作る、人間が世界を構築する、その方法が変わっているのだ。この世界について最初に考え始めたのがハイデガーの影響をうけたフランスの哲学者達である。とくに身体と知覚の問題について深く展開してきたのがメルロ・ポンティだ。日本では木田元氏達の翻訳が昔からあり、よく知られている哲学者だ。英訳も多い。
だが、もう一つぴんとこない。じゃあフランス語で読んでみようか、というのが再学習の動機である。比較的慣れている外国語なので、入門の教科書をいくつか比べてみた。最終的に『フラ語入門、わかりやすいにもホドがある』清岡智比古を選択した。ちょっとふざけたタイトルだがとても良い。同じ著者が出している教科書よりこちらがいい。CDは一時間ちょっと。いままで40回くらい繰り返して聞いて、大分音にはなれた。ちなみに音を学習するときに初級の文法書を使うのが大切である。会話とか単文だと情報量が多くてめんどくさい。簡単な文章から徐々に難しい文章へ、ドリルをしながら積み上げていく方法ではいつまで経っても出来るようにならない。音が理解できるようになったら初級文法を一気に終了させるのがいいのだ。で今日から文法理解へ。こればかりは覚えるしかない。なので日本語をノートに書き出してそれをフランス語で言ってみる。
さて、語学においては文法能力を頭に作ることが大切である。言語学者チョムスキーがコンピテンスと呼んだ能力だ。問題は大人になってからその能力を作ることが出来るか、である。英語を小学生から始めた方が良い、という文部省の政策などは大人は外国語を学ぶのが難しい、という考えに基づいている。おもしろいことに、この説に反対する人には英語の達人といわれている人がおおい。たとえば鳥飼玖美子氏などである。母語は小さいときから身に付けるから母語だ。だが人間は母語以外の言語を身に付けることが出来る。流暢に英語を話す日本人は珍しくない。人間の持つ外国語学習能力は非常に不思議だと思う。ここがわかっている英語の達人達は母語をしっかりと作ってから外国語を学ぶという方法を支持しているのだ。また半端なことでは外国語を本当にマスターすることは出来ない。それを知っているのも達人達だ。
言語を学ぶときに言語の置かれている社会的政治的経済的な要素が深く関わってくる。この分野は社会言語学といわれる。英語をとってみても、長い間、西洋人になりたいという気持ちと英語学習が結びついている。あるいは植民地化されて支配され言語を強要されることもある。支配する者とされる者の間でつかっている語彙が違うということもある。この問題とコンピテンス獲得問題には何の関係もないと僕は思っている。コンピテンス獲得はあくまでも人間の能力の問題であり、社会的な背景はその能力を獲得する環境や条件に大きく関わってくる。めんどくさい言い方をしているが、ようするに、だれでも大人になっても、言語能力をつけることは出来る、ということを言いたいのだ。そのレベルは多様だ。テニスでいえばウィンブルドンで試合をする人もいれば、週末に友達と試合を楽しむ人もいる。どちらもテニスである。同じ事である。
というわけで、必要以上に完成度をもとめないで、ゆっくりと文法能力を付けていく。音が単語をつくり、単語が組み合わさって突然全体性を獲得していきた文章となる。聞いたり読んだりしたときに文章が文章として成り立っていることが分かるようになる、それが言語能力、コンピテンス、である。それを作る。これがフランス語の当面の課題である。
英語
英語は語彙を増やす。これにつきる。どうするか方法を模索中だ。
2010年9月1日
今日が第2日目。
イタリア語
6回目 日吉の行き帰りで終了。文法的なところが気になり始めた。大分なれてきた。30回くらいまでこのままで続けよう。
フランス語
例文を日本語とフランス語で書き写す。初等文法はドリルをやっては非効率だ。いわゆる学校文法の規則には普遍性がない。それをパターン学習方法で繰り返して暗記してもあまり意味がない。それよりは文法で説明できる外国語の文章がそれにそうとうする日本語をみると口をついて出てくるまで鍛えた方が良い。Lesson10まで日本語と相当するフランス語をノートに写す。これを繰り返し読んでいく。暗記をむりにしない。communicative competenceを作る方法として知られている方法だ。何度も繰り返しているうちに覚えるだろう。そのときが分かったときだ。
英語
単語を強制的に増やす方法は文脈に沿って覚える方法と単語帳を使って覚える方法がある。実際はその併用が好ましいと言われている。同じ単語が違う文脈で出てきたときに意味が分かる必要があるからだ。また単語帳だけで覚えていくのは退屈で大変。このあたりを工夫してみようと2種類の教材を注文してみた。
2010年9月2日
今日が第3日目。
イタリア語
7回目。なれてきた。録音に会わせてシャドーイングをしてみる。割と楽になっている。
フランス語
休み
英語
ボキャブラリービルディング用の本、到着。A Kaplan SAT Score-Raising Classic The War of the Worlds by HG Wells. 右頁にテキスト、左頁に単語と発音と意味の説明。まずはこの一冊から単語帳を作ってみよう。
2010年9月3日
今日が第4日目。
イタリア語
8回目。
フランス語 休み
英語
休み
ギリシャ語とラテン語のCD付き教科書が届いた。
2010年9月4日 土曜日
今日が第5日目。
イタリア語 休み
フランス語 休み
英語 休み
2010年9月5日 日曜日
今日が第6日目。
イタリア語 休み
フランス語
ノート レッスン11
英語
SAT The War of the Worlds Chapter4 まで読了
2010年9月6日 月曜日
今日が第7日目。
イタリア語
9回目
フランス語
ノートLesson 13 まで
英語
SAT The War of the Worlds Ch1 単語帳に転記。
というわけで第1週終了。
by naohito-okude
| 2010-09-07 06:43
| 外国語