奥出直人のJazz的生活


by naohito-okude

カテゴリ:Jazzライブ( 5 )

慶應義塾大学メディアデザイン研究科で研究をつづけている音楽プロジェクトがその研究の一環として11月12日にJazzワークショップを行います。本格的なJazz実技教育を総合大学という環境で行うにはどうすればいいのかを考える実験授業です。表面的な技法ではなく、Jazz演奏のエッセンスをワークショップ形式で学ぶもので、井上智 (ギター)氏と金子健氏(ベース)をお呼びします。井上氏はニュースクール大学ジャズ科で学び、そのあと著名なJazz音楽家とのツアーに参加。ニューヨークのJazzシーンで活躍された方です。ニュースクール大学 のジャズ科で教えた経験もお持ちで、バリー・ハリス由来のJazzワークショップを行えるすばらしい音楽家です。公開講座の形をとっているので、学外の方も申し込んでいただければ参加可能です。是非ご参加ください。

ジャズワークショップ
口承(オーラル・トラディション)によって学ぶ
インプロビゼーション
2012年11月12日 (月) 18 : 00 〜 20 : 00 (予定)
場所: 慶應義塾大学 日吉キャンパス
協生館3F KMD studio
主催:KMD music project
ジャンル:ジャズ
募集人数:20人 ※
講師:
井上 智(ギタリスト)
金子 健(ベーシスト)
費用:2,000円 ※※
Mail申込:info.kmdmp@ok.kmd.keio.ac.jp
- 内容 -
ジャズ言語を話す為の道具(スケール、アルペジオ、モチーフなど)を理解し、楽器演奏やタッピング・シンギングをジャズのリズムの中で共有しながら、インプロビゼーションの基礎を体験する。なお、本ワークショップは座学だけでなく生徒と講師のセッションを行いながら進行する。
・ブルースでの実例と応用
(フォーム、コード進行、コール&レスポンス)
・スタンダード曲での実例と応用

http://www.kmdmp.jp
[PR]
by naohito-okude | 2012-10-27 07:14 | Jazzライブ

秋吉敏子 ライブ

10月20日 火曜日

秋吉敏子ライブ B♭ 

ジャズ音楽評論家の中川ようさんと秋吉敏子さんのジャズピアノソロライブに。ジョン・スウェッドJazz101で「ジャズは民族音楽として始まり、アメリカ文化の中心でアメリカを代表する大衆音楽となり、ラジオやジュークボックスで曲が流れていたかと思うと、あっというまにアバンギャルドとなり、再び少数派の音楽となり、世界中の知識人やヒップスター(気取りや)が聴くようになった。この変化がたったの50年で起こったのだ」と2000年に述べている。このようにジャズを考えたときに、最後の30年、つまり70年代から90年代にジャズがどのように展開してきたのかを知ることが非常に大切になる。そのときに非常に重要な音楽家が秋吉敏子さんなのだ。B♭で彼女のプロデューサーである岩崎哲也君に30年ぶりに再会。会いたいと最近思っていたのだが、どうも切っ掛けがつかめないまま時間が過ぎていた。中川ようさんのおかげで会うことが出来た。ようさん、どうもありがとう。下記は秋吉さんとようさん。

c0202370_6594152.jpg


またこの夜のライブについても書いてくれた。下記がURL。


http://yonakagawa.com/diary/post-131.html


岩崎(以下敬称略)とは慶應高校の同級生である。慶應高校から文学部に進む学生は少なく、同じクラスからは岩崎と小池君と僕の3名だった。小池君とはあまり口を利いていなかったのだが、岩崎とは良く話をした。彼は高校の時から大変なレベルのジャズピアニストで、マイルス・デイビスのバンドでピアノを弾いていたビル・エバンスの演奏をコピーをしたり、チック・コリアリターン・トゥ・フォーエバーを出したときに、フェンダーのローズを弾きこなし、ピアノとエレピでは和声が違うのだと説明して見せた。ボサノバの曲を弾き語りしてパーティで女の子にもてることしか考えていないような慶應高校音楽野郎の中で、圧倒的に音楽性で際だっていた。大学に入った年は、慶應大学の学生運動で最後のロックアウトがあり、日吉では授業がなかった。僕は暇なのでアテネ・フランセに通って、分かったのか分かってないのかすら分からずに、デリダやフーコーの本を読んだりしていた。

僕はそのころスウェッドの本の影響もあってアメリカの黒人大学への進学を企てていた。同じ頃岩崎のお姉さんもボストンのニューイングランド・コンセルバトワールのパイプオルガン科に留学をした。留学先のAlabama州Talladega大学は黒人のためのリベラルアーツの名門で、多くの卒業生が東部の名門校の大学院に進学をしていた。当時の学長はブレイスウェイト氏でやはりニューイングランド・コンセルバトワールをでて、ドイツの大学に留学をして音楽博士をとった黒人の学者だった。岩崎のお姉さんの先生だった世界的なオルガン奏者である林 佑子氏も彼はよく知っていた。

1年留学して帰国したあとも、ジャズを聴いたり語ったりするだけではなく、岩崎のお姉さんが所属している小林道夫さんの古楽器のオーケストラのコンサートや、慶應のワグネルオーケストラで岩崎がチェロを弾いていたので演奏会に行ったした。岩崎はその頃作曲に興味を持ち高橋 悠治(たかはし ゆうじ)さんのところに習いに行ったりしていた。そんなことで高橋アキがエリック・サティを演奏する会にも出かけていった。1975年頃の話だ。コンピュータの可能性が現代音楽の動きに大きな影響を与えると共に、グローバリズムの影響で世界各地の音が「流通」を始めた。現代音楽をささえていた基盤が壊れ始めていた頃でもある。そんなときに岩崎がガンサー・シュラー Gunther Shuller の話を始めたのである。ニューイングランド・コンセルバトワールの学長であった。

ガンサー・シュラーは若くしてプロの音楽家として活動を始め、マイルス・デイビスのバンドでフレンチホルンでジャズを演奏したりしていた。1950年の頃である。クラッシクとジャズの技法を組み合わせて新しい音楽をつくろうと"Third Stream" と名付けた活動を行い、いくつかの作品をつくり、Ornette Coleman, Eric Dolphy, そして Bill Evansが演奏した。作曲家として非常にアクティブで180に及ぶ作品を書いている。この話も面白いのだが、なによりも特筆すべきは1968年にニューイングランドコンセルバトワールにジャズプログラムを作ったことである。ジャズが新しい音楽になろうともがいているときに、クラッシック音楽の名門音楽大学にジャズ科を作ったのである。いまではアメリカの大学教育のなかでジャズ研究と教育は不可欠であり、このことについてはいずれ詳しく説明したいが、ジャズを音楽として正面切ってとらえた初めての試みと言って良い。ジャズに関する本も次々と出版した。そのいくつかは翻訳されている。

ジャズをクラッシックや現代音楽を同列において、自在に批評していく。この流れは、シュラーの他には、Max HarrisonMartin Williamsがいる。こうしたJazz研究への入門がスウェッドのJazz101だ。そんなわけで、1970年代後半にガンサー・シュラーに傾倒したわけである。その後岩崎は全音に就職。僕は大学院に進み、フルブライト留学生として1981年にアメリカのワシントンDCに留学する。DCにあるスミソニアン研究所と連携してアメリカを研究する研究科のあるジョージワシントン大学で研究を始めた。

そのころ、ラジオでいきなり聴いたような聴いたことのないようなジャズのオーケストラの曲が流れた。1970年代、Martin Williamsはスミソニアン研究所でジャズの録音の体系化と歴史的に重要だと思われる曲の再演を立て続けに行っていた。そのためにthe Smithsonian Jazz Masterworks Orchestraを編成して、シュラーが指揮を担当していた。そしてデューク・エリントンが作曲して部分的にしか演奏されていないSnymphony in Blackの再現公演をしたのだ。その曲がNPR(ナショナルパブリックラジオ)から流れてきた。なかなかの衝撃であった。そして、そのあとシュラーがホストを務めるジャズのピアノの番組があることをみつけて、時々聴いていた。その番組でかれがラグタイムについて語っていた。スコット・ジョップリンの業績を再評価して、再演をしていたことも知った。この番組が切っ掛けになって、いくつか調査をおこない、資料をあつめた。これが僕の初めての長文の評論「黒人イメージの再発見」となり『中央公論』に発表した。(この辺りの研究は拙著『アメリカン・ポップ・エステティックス』(青土社)でまとめてあるので、興味のある方は読んでみて下さい。)

僕は日本に帰り、日本女子大で教える一方で、1988年から慶應大学のSFC創設の準備を手伝って、1990年、開設と共に助教授として勤め始めた。アメリカのアイオワ州のGrinnell大学でアメリカ文化史の教鞭をとったりもしたが、基本的にはSFCで新しい研究の方法と分野を試行錯誤して忙しく過ごしてきた。この頃に全音からクラウンに移ったという話を岩崎と電話でした記憶がある。

北島三郎など演歌歌手のレコード会社として知られるクラウンは1973年、溜池にCRS(クラウン・レコーディング・スタジオ)を作った。このスタジオで南こうせつ、大貫妙子、鈴木茂、坂本龍一、矢野顕子、松任谷正隆、細野晴臣などが録音をした。(書いていて懐かしいね。)岩崎はそこで1989年からプロデューサーとして活動を始める。LPからCDへとメディアがかわるなかで、クラウンは洋楽の部門を充実させたいと考えたのである。

さて、秋吉敏子さんであるが、ジャズが新しい音楽ジャンルとして全貌を現すのは1970年代からでありそのときに大きな役割を果たした一人が彼女なのだ。彼女の偉大さは僕たちが日本で聴いているとどうもぴんとこないところがある。それはジャズのうねりを共感する音楽的コンテキストに欠けているからである。そこを埋めてくれるのが岩崎が数年前にまとめた秋吉敏子『孤軍』という本である。この本を追いながら秋吉敏子の意味を探ってみたい。

ガンサー・シュラーの仕事として高く評価されていることの一つに1989年にLincoln Centerでチャールス・ミンガス Charles MingusEpitaphの再演がある。秋吉敏子は1962年、チャーリー・ミンガスのグループに入団して、ピアノを弾く。ミンガスは大曲を準備していた。10月12日、コンサートを開いたが、準備段階では10人編成だったバンドが30人にふくれあがり、譜面を渡されたが、皆なんだか分からない。ミンガスはアレンジャーの方法が間違っているという。譜面のやり直しをしたが間に合わない。というわけでさんざんたる結果になった。この時の曲エプタフを再演したのである。

その後秋吉敏子はルー・タバキンと結婚して、ニューヨークからロサンジェルスに移り、1974年、ビッグバンドを編成して「孤軍」を発表する。3万枚を売る大ヒットになった。1978年から日本、アメリカ、ヨーロッパツアーを行い、「世界の秋吉」と呼ばれるようになる。ダウンビート誌の評価も高くなり、1977年には最優秀レコードとして「インサイツ」が選ばれ、ビッグバンドは第2位、作曲第4位、編曲で3位となる。『孤軍』からこのあたりのところを引用すると、「ちなみにビッグ・バンドの一位はサド・ジョーンズ=メル・ルイス。二位の秋吉の次点はカウント・ベーシー。作曲は4位の秋吉の上は、一位、チャーリー・ミンガス、二位カーラ・ブレイ、三位、チック・コリア。編曲は一位ギル・エバンス、二位サド・ジョーンズ、三位の秋吉敏子の次点四位はカーラ・ブレイという、まさに身震いするような、凄い内容だ。」

1981年にはダウンビート誌で、読者人気投票ではビッグバンド、作曲、編曲で一位となり三冠達成をする。どの部門も圧勝であったというが、ふたたび『孤軍』から引用すると、「ビッグ・バンドの二位はカウント・ベーシー、3位はウディー・ハーマン、四位はサン・ラ(!)、作曲の二位はチック・コリア、三位はウェイン・ショーター(!)、編曲の2位はギル・エバンス、三位はクインシー・ジョーンズ(!)」だという。これは何とも凄い。1972年からの10年間、秋吉は42才から52才、まさに体力気力精神力のピークにあり、自分の作品しか演奏しないオーケストラを維持して演奏を続け、20枚のアルバムをだし、そのうち13枚がビッグバンドである。1982年10月、ふたたびニューヨークへ居を移すことになる。

ジャズオーケストラをニューヨークでつづけることはなかなか難しかったという。ロスではジャズミュージシャンがジャズを演奏する機会がすくなく、秋吉のオーケストラにはせ参じたが、ニューヨークではジャズミュージシャンは仕事が多くあり、ギャラも高いからだ。1989年に作曲の依頼を始めて受ける。福岡市からであった。現代音楽の作曲家のように委嘱されて曲をつくり、演奏で初演をする。そんななかで1990年、秋吉敏子がピアノアルバムを日本クラウンで作ることになる。プロデューサーは岩崎である。オーケストラの録音はアメリカで販売できる会社にこだわっていたが、ピアニストのアルバムはどこでもいいという柔軟な姿勢があったからだという。クラウンは流行歌中心だったが、CD時代になってより芸術性の高いアーチストをさがしていた。最初のアルバムは「四季」と「リマンバリング・バド」で後者はジャズチャートで首位になった。1991年には「シック・レディ」、1993年に「ディグ」、1994年に「ナイト・アンド・ドリーム」と続く。

LPからCDへとメディアを変えた音楽であるが、いままたメディアが変わろうとしている。クラウンは2008年に溜池のスタジオを閉鎖する。岩崎は仲間とCRSソングスという会社をつくり、午前中はスタジオに顔を出してあとは自宅のスタジオでしごとをしているという。「CDなんて一人で作ることが出来る時代になった。100人の人間を食べさせるビジネスではないのだ」と言っていた。まさにその通りだ。CDの登場と衰退の20年が彼のクラウンでの時代であり、僕も考えてみればパソコンの登場と衰退の20年がSFCの時代だったなあと思う。いま、KMDで教え始めて、つくずく時代は新しい局面に突入しているおもう。岩崎プロデュースの秋吉敏子さんのピアノCD発売が楽しみである。下記写真は秋吉敏子さん、岩崎、奥出。撮影は中川ようさん。

c0202370_7155826.jpg

[PR]
by naohito-okude | 2009-10-23 07:42 | Jazzライブ
10月8日 木曜日

Softwind 高木里代子ライブに。Softwindは昔は別の名前のジャズライブの場所だったが、最近オーナーが変わった。

http://www.softwind.jp/

高木里代子さんはここでジャズのライブをよくしているのだが、今日はICJOでの出演。クラブとは違う環境でのハウス音楽。ピアノやキーボードを身近に聞くことが出来て楽しかった。

メンバーは牧野雅己(DJ) 高木里代子(p) 木下るり(vln) 

http://www.icjo.net/pc/top/top.html

お客はハウス音楽のキーボードとしての彼女のファンで慶応大学体育会アメリカンフットボール選手でいまは都市銀行に勤めている二人組をのぞいては、ジャズピアニストとしての高木里代子のファンが中心で、クラブとは縁のない感じ。お店は一杯になった。演奏は僕的にはとても良かった。KMDの同僚のエイドリアン・チオクさんを誘って一緒に行った。高木さんとツーショットを取った。鼻の下が大分長いね。

c0202370_19492286.jpg


エイドリアンはハウスミュージックが好きで、自分でもDJをするという。なのでとても楽しんだようだ。DJがかけたあるLPを聞いてエイドリアンは「デトロイトテクノだ」と言う。詳しい。

そのあと残った人で集合写真。

c0202370_19494377.jpg


そのあとDJの牧野君がオーナーをしているソノラに。おもしろかった。

http://sonora.in/sonora/dj/dj.html

80年代にテクノなどいろいろと新しい動きがあって、最後にきたのがハウスだ。80年代に何があったのだろうか?このあたり僕は前半はアメリカの大学院に留学していたのだが、帰ってきてからはテクノとワールドミュージックの時代だ。なんだかいろいろ思い出してきた。いま手元にないが、『現代思想』の別冊やFM東京でこの辺りのことを書いたりしゃべったりしたことがあるなあ。芝浦のGOLDの音楽やしつらえと、バブルと、テクノとワールドミュージック。いずれにしても、楽しい夜だった。僕も論じてばかりではなくて、一緒に演奏しようかな。

しかし、チック・コリヤウェイン・ショーターのあと、ジャズはどうすればいいのか。これは結構避けてきた大きな問題。古いジャズばかり演奏していてはだめなんだよね。

思い出しついでに、1974年、大学3年生の時僕はアメリカはアラバマ州のTalladega Collegeというリベラルアーツの大学に1年留学した。ここは人種を問わない。黒人がつくった黒人のための大学である。かつては大名門だった。 他に大学に行けないのでここで学んで北部の大学の大学院に進学したりした。Afro-American Anthropologyという論文集を読んで感動して、留学することにしたのだ。Norman E. WhittenJohn F. Szwed が編集で1970年の出版だ。 John F. Szwedの本はその後も僕は読み続けていて、高木里代子のジャズをこれから考えていくときに何度か登場すると思うが、まあ今回は触れないでおこう。

オバマ大統領が登場して、黒人問題をポジティブに議論することは何の問題もないが、35年前、黒人の文化をポジティブに議論すると人種差別主義者のように社会科学の研究者の中では言われていた。「黒人問題」は社会の不正がうみだしたネガティブなものでありそれを是正することが大切だ、という議論が中心であり、黒人問題は白人問題であり、白人が変わるべきだというスウェーデンの経済学者で1974年にノーベル賞も受賞したグンナー・ミュルダール(Gunnar Myrdal)の意見がせいぜいであった。だが黒人の生活を民族誌的手法で記録する研究者の中からいまの黒人の文化は非常に価値があるという動きが出てきたのである。このパイオニアがSzwedで、1980年代始めにはYale大学の教授になって、アフロアメリカ文化と音楽の研究を続けた。僕は黒人文化を民族誌的に研究するという点にとても魅せられて、黒人大学に留学するという冒険に出たのだ。

そこで出会ったものは白人になりたい黒人、アメリカ社会を攻撃する黒人、アフリカからの留学生にくわえて、アメリカの黒人文化をみにつけている黒人たちだった。彼らは「ファンキー」なのだ。また1974年にはすでにファンクバンドが登場していた。白人・黒人混成バンドスライ&ザ・ファミリー・ストーンである。オハイオ・プレイヤーズコモドアーズアース・ウィンド・アンド・ファイアーなどがTalladega大学の週末のパーティでがんがんかかっていた。リズムは裏打ちで16ビート。ベースのうねりとギターのカッティングが特徴だ。また非常に洗練されたボーカルが加わるところも特徴で、ファルセットをつかって歌っていく。クインシー・ジョーンズマイケル・ジャクソンをプロデュースして大体音楽的な枠組みは固まった。

さて、ファンキーという視点(いや、聴く耳だな)をもつと、つまり、ジャズはファンキーでなければならないとすると、ダンス音楽であることをやめたビーパップはどうなのか、という話になる。だがディジー・ガレスピーですら、踊りがなければジャズじゃないといっているわけで、ファンキーな要素がないジャズは意味がない。マイルス・デイビスはこの問題を考えて活動を続けてきた。これに関してもJohn Szwedなどの本を参考に具体的に書き出すときりがないのでこのくらいにして、でチック・コリアハービー・ハンコックウエイン・ショーターである。チック・コリアは1971年に、ベーシストのスタンリー・クラークらとともに、リターン・トゥ・フォーエヴァー(Return To Forever)というバンドを作り、ECMレコードからアルバムReturn to Foreverを発表する。ハービーハンコックもエレクトリック楽器とフュージョンに向かい始める。フュージョンのコンセプトでジャズとファンクを結びつけたが、問題は結びつき方だったと思う。ジャズがポップミュージックからシリアスミュージックに変わって聴衆を失っていたときに、ポップミュージックからジャズに行くか、ジャズがポップミュージックの歩み寄るかで出来る音楽は大分変わる。ジャズマンなのにポップスからジャズに接近するような作品をプロデューサーに作らされた痛々しいLPが多いのもこのころだ。

こんな手詰まり感をものともせず、あたらしい音楽を探しかつ作り続けてきたのが80年代90年代のDJたちだったと思う。ごりごりの主流派からは低く評価されていたJazz演奏者のLPをリミックスしたりファンクの精神でテクノを行ったりといろいろしていたが、どこまでいってもファンクがある。プリンスもそうだ。ここを吸収しつついろいろな音楽と混じっていく。それが21世紀のジャズなのだ。この話はこのくらい。80年代、90年代、おもしろかったけど、70年代の半ばまでに起こったシリアスな音楽の問題を継承できなかったのが20世紀後半でもあるので、21世紀にはこのあたりをしっかりと考えた音楽が出てくるだろうと楽天的に考えている。
[PR]
by naohito-okude | 2009-10-12 20:03 | Jazzライブ
9月16日

午後にジャズ歌手のちゅうまけいこをKMDを案内した。彼女は都内で活躍する実力派のジャズ歌手。
http://blog.livedoor.jp/heart_horse_club
今日は横浜に一緒にライブに行くのだが、折角なので途中日吉で降りてもらってKMDを紹介。

都市メディアプロジェクトで、街を歩く人の行動をセンサーで調べて、今何をしているかを推測する。それをもとに新しいサービスの開発をしてる大学院生の安君がプロジェクトを説明。
c0202370_1234249.jpg


そのあと、メディカルプロジェクトについて林瑞恵さんが説明。きちんと説明できると言うことはそれだけ意味のあるプロジェクトをやっていると言うこと。安君と瑞恵さん、先生は鼻が高いよ。
c0202370_1243516.jpg


そのあと、横浜のモーションブルーに高木里代子のトリオ初出演を御祝いがてら聞きに行った。
音響が素晴らしいとてもいい場所。お客様もたっぷりと入っていた。
曲は

Someday My Prince Will Come
ビル・エバンス、マイルス・デイビスの名演奏があるデズニーの曲。最初の曲でありかなり緊張したと思うが、演奏はよかった。高木里代子特有のピアニズムがよく出ていた。本人はヤマハ育ちといっているが、音が粒だっていて、アドリブのフレーズに自分らしさがあってよいね。技法と音色にオリジナルなフレーズが加わって、これからどうなっていくのかねえ、とちゅうまさんと話す。マイルスの演奏のときのピアノはウィントン・ケリー。あんな音の厚みもあるピアニズムでした。

Redwine
オリジナル曲。

So What
Red Wineからベースの斉藤誠さんがエレベに持ち変える。5弦のベースだが、えっ、うまい。演奏はマイルスの演奏よりは大分早い気がした。ベース演奏のせいか、ポップス感にあふれているし、ピアノのアドリブも高木里代子のピアニズムがよく出ている。このポップス感覚がいい。ちゅうまさんは「ビヨンセも聞いていると、ジャズの長い歴史があって、いまのあの歌い方があると思う」との意見。ある時点からのポップミュージックはあきらかにジャズの伝統を背後に持っている。まあ両親や周りの年上の連中がジャズを聴いている中で自分の音楽性を形成して、それがいまの自分の演奏に反映している、という自然なことかもしれないけれど。僕は55才だけれど、こうした感覚は確かに感じる。ポップス感覚でいまのジャズがある、というところか。ってなわけで、良い演奏でした。

Only Trust Your Heart
ボサノバで。この歌詞の意味はなんだろうね。彼を好きになったらお星様やお月様の言うことなんか聞かないで、自分の気持ちを信じて、というのが高木里代子さんの解釈。ちゅうまさんは「好きな男が浮気したりろくでもないやつでこれからどうしようかなあ、とおもったときに、信じることが出来るのは自分の気持ちだけだ」という感じだそうだ。多様に解釈される歌詞を書く詩人に乾杯。

Autumn Song
オリジナル。

Spain
ご存じチック・コリアの名曲。僕が始めて高木さんのピアノを聞いたときの曲がこれだったような気がする。彼女の十八番である。カデンツァからスローバラードでアランフェス協奏曲 Concierto de Aranjuez の頭のところを演奏して、それを二回繰り返した。うーん。そのあと、強烈なリズムとメロディで切れのいいチックコリアのフレーズが入る。チックコリアはこの曲の最初の録音ではフルートにリードを取らせ、そのあとアルトサックスが入るバージョンも行っており、またBobby McFerrinとの演奏もいくつかあるが、優れたものがおおい。Al Jarreauとの演奏も良い。どの演奏も胸に迫る。これは大変な名曲。高木里代子のピアニズム爆発でした。この曲に関してはバイオリンとの競演も聞いてみたいし、サックスとの絡みも興味があるところだ。

フォービートから16ビートのフュージョンをへて、ハウスにと流れていく日本のグルーブの運命みたいなものを考えると、日本のポップス界はちょっと緩いんじゃないと思っていたら、ちゅうまさんが「最近歌を習いに来る若い子がジャズにあまり興味がないので、Jポップを教える必要があって、聞いているのだけど、最近のJポップはなかなかすごい。テンションコードたっぷり使ってるし、ジャズよりジャズって感じもある」という話。新しく音を聞く感受性が生まれてきているのだと楽観的に思う。まあ考えてみれば、昔から矢野顕子さんとかがいたわけだからねえ。


ステージが終わった時に、年上の知り合いでアマチュアのジャズトランペッターが席まで挨拶に来る。恐縮しながら「え、高木さんと知り合い?」と聞くと、「いや慶應出の若いピアニストだ、というので友達と聴きに来た」とのこと。慶應のジャズ好きのなかで人気を出していって欲しい。

終了後渋谷に。道玄坂をあがりジャズライブのお店KOKOへ。水曜日はジャムセッション。ミュージシャンは山中良之(Ts)高橋聡(P)志村洋一(B)滝幸一郎(Ds)。時々訪ねるのだが、バップが好きなジャズミュージシャンがあつまる。KOKOはチャーリー・パーカーの名曲にちなんだ。サックス、ギター、フルート、ドラム、ベース、ピアノとアマチュアからプロまであつまって、どんどんジャムセッションをしていく。うまい人が多いというか、かなりのレベルでジャムセッション出来ないと参加できない感じがあって、その緊張感が面白い。僕はボーカルなのでその緊張感はないが、いろいろなミュージシャンと演奏すると楽しい。この日はちょとお客が引けた後に到着。僕はSatin DollBody and Soulを歌う。ちゅうまさんはGirl Talkを熱唱。うまい!!

c0202370_16361423.jpg


山中さんは僕のサックスの師匠でもある。ドラムの滝君は外国からジャズやソウルのミュージシャンが来ると指名がくるほどの腕前。ちゅうまさんとはまえからの知り合いで、挨拶をする。ピアノの高橋さんがちゅうまさんに「僕、一度伴奏をしたことがあるのですが」と声をかけてくる。

KOKOは

http://www3.point.ne.jp/~ko-ko/

そのあと赤坂のマヌエラに。
ちゅうまさんはベーシストの大角 一飛(オオスミカズヒ)さんに挨拶。明日ヒルトンホテルの仕事が一緒だとか。

http://www.littlemanuela.com/

Just Friends
Satin Doll
Pennies from Heaven

を歌って終了。

久々にながながと遊んだ夜でした。
[PR]
by naohito-okude | 2009-09-17 16:40 | Jazzライブ

Inner City Jam Orchestra Party

9月5日(土) 渋谷「Halem」BX CAFEにInner City Jam Orchestraを聴きにいった。正確には9月6日午前2時からだ。「RYUDO(龍土)」というアルバムが出たのでそれを記念してのパーティである。

c0202370_1412925.jpg


音楽のジャンルはハウスである。ハウスというのはリズムマシーンで4つ打ちを行い、それにあわせてDJがいろいろと曲を重ねていく。曲の一部を切り取ってつなげていくことから、初めて出てきたときは伝統的な音楽家はおどろいて、リミックスとかいったり、引用の連鎖でパスティーシュとかシミュラークルとかいろいろことあげをしたが、DJが曲を極限まで短く引用したり一部を繰り返し前から後ろから繰り返したり(スクラッチ)してダンスフロアの音楽を作っていく。

場所は円山町にあるHarlemというクラブである。ライブ23時開場とあったのだが、一緒にいったマリさんが、ライブの時間を確かめてといいうので、バンドでキーボードを弾く高木里代子さんにメールしたところ、DJが続き、ライブは2時頃ということで、西麻布のよくいくバーで時間をつぶして、クラブに向かった。

で、演奏だが、前もってCDを聴いていて、曲や演奏にはなじんではいたのだが、ライブとして非常に良かった。2階にのぼって、手すりから演奏を聴いていたのだが、面白かった。旋律は日本的というかなじみのある旋律で、リズムは4つ打ちで早い。インプロビゼーションはジャズフレーズが適度に混じり、グルーブを引き出している。リズムも4つ打ちをダウンビートにしてピアノがこれも適度に裏、つまりハイハットのポイントでコード引きでリズムを入れていく。そしてバイオリン。サックスやエレクトリックギターのソロ引きが担うパートをエレクトリックバイオリンが担っている。リード楽器が持たなくてはいけない色気みたいなものが出ていて良かった。

ピアノの高木里代子はのりまくり、でもカワイイ顔の表情は崩さず弾き続けた。僕は一時間以上ずっと聴いていた。彼女は前に僕が教えていた慶應大学湘南藤沢キャンパスSFCの最近の卒業生である。大学の時には知らなかったのだが、卒業後いろいろなところでジャズピアノを弾いていて会うことが多い。下記がURLである。

http://blog.livedoor.jp/riyoko_piano/

アバンギャルドジャズをチック・コリアなどが飲み込んでフュージョンジャズを作り出したわけだが、その先がまた難しい。変拍子を盛り込んだりしてどんどん音楽性を高める動きがあれば、一方、ソウルやR&Bと区別が付かない方向に向かう流れもある。僕はこれも一つだなと思っている。クインシー・ジョーンンズが始めてヒップホップまでたどり着いた。ハウスに比べればリズムがゆっくりなのだが、グルーブの固まりだ。もう一つ、フュージョンが生み出した気持ちの良さを前面に出すスムースジャズが生まれるが、これはまあ何というか、聴いていてちょっと恥ずかしいところがある。ケニーGとかね。

でDJだが、これもまた面白い展開をしている。20世紀は様々な音楽経験が個人の中に凝縮されてきた世紀だと見ることが出来る。レコードに始まり、カセットテープ、CD、MP3と流れてきて、強大な経験のデーターベースを非常に多くの人が共有している状態だ。頭の中に記憶されている音楽の断片を瞬時に切り出してみせるDJとその基盤となっているハウス。4つ打ちにのせてあらゆる音楽がハウスのジャンルに含まれていく。4つ打ちのリズムにはスピードを合わせればおよそどんな種類の音楽でものせることができる。したがって、すでにある音楽を素材として、これはメタ素材だな、メタ素材として、それをつかって料理をするDJがいる。その音楽をいわば通奏低音として、演奏者がパフォーマンスを繰り広げる。


本来オーケストラ曲はそういった形で作曲されているわけだが、作曲家が長い期間をかけて技法を習得し、そのあとさらに、膨大な時間と手間をかけておこなう歴史と音色の積み上げである作曲を一瞬にして行うのがDJである。そうしてつくられた音楽の上に、メロディーとコードでキーボードとバイオリンが絡む。今晩のユニットの名前はインナーシティ・ジャム・オーケストラである。上手に名付けたものである。DJのオーケストラにキーボードとピアノがからみ、コンチェルトとなる。

ハウスのリズムにはどんな曲でも乗ることが出来る。したがって無数に近いジャンルのハウスがある。このバンドは和風ハウスだ。

うーん。エレクトリックにエフェクトをかけたソプラノサックスの活躍場所ではないか!!!ケニーGだけでは寂しいだろう!!サックス練習人として自戒を込めつつ。

高木里代子さんとの写真を載せておく。
c0202370_1426565.jpg

[PR]
by naohito-okude | 2009-09-06 14:32 | Jazzライブ