奥出直人のJazz的生活


by naohito-okude

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「美しさのデザイン」と題して、山中 俊治 慶應義塾大学 環境情報学部 教授のプレゼン。
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山中さんは東京大学工学部出身にもかかわらず日産にデザイナーとして採用されて、自動車のデザインを行っていた。その「華麗(?)」な経歴から早くから注目されていたが、その後独立したデザイナーとなった。20年ちょっとまえのことだ。
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僕はそのころデザイン評論家として積極的に活動をしていた。いろいろなシンポジウムや会合で一緒になることが多く、そのころからの知り合いである。そのころ書いた評論のうち長いものは「トランスナショナルアメリカ』や『アメリカンポップエスティックス』にまとめてあるので、興味のある人は読んで欲しい。またこのころIDEOのBill Moggridge 氏がインタラクションデザインというまったく新しい方法を提案して、実際にデザインをおこなってみせた。
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それを日経のある雑誌で批評したことが縁で彼と知り合い、彼の下で働いていた現在IDEOのCEOであるTim Brownを紹介される。彼と一緒に日本で「デザインクエスト」と題したワークショップを行った。企業のインハウスデザイナー中心のワークショップである。まだデザイン思考という言葉になるまえだが、プラクティスから知を生み出す方法に僕はかなり衝撃をうけた。
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またTimもこのときに方法論の汎用性に気がついたのではないかと思っている。「アフターファイブの仕事でやる」つまり無料でやるよ、これは面白いしIDEOにとっても大事だ、と言ってくれたのを今でも覚えている。サンフランシスコのオフィスで働いていた深沢直人さんにあったのもこの頃である。デザインクエストの最終日にシンポジウムを行い、Timと僕と山中さんで話をした。それから随分時間がたったのか、一瞬でいまにいたるのかよくわからないが、いま慶應で同僚になっているのはなかなか感慨深いものがある。

デザインという行為は魔術ににて、いや魔術であり、人を幻影の中に引き込む。僕はその魔術をインタラクション環境でおこないたいと15年ほど本当に暗中模索してきた。Crestの5年間でこのくらいトンネルから抜け出た気がしている。なにがインタラクションデザインか、どのように表現をしていけばいいのか、分かった。それは今回のシンポジウムで配られている冊子のなかで僕が書いた理論の章に詳しく書いたのでここでは省略しよう。

さて、僕はデジタル環境の中に魔法をもとめて試行錯誤してきたが、山中さんは物理的な環境でデザインを追求してきた。そのことが非常によくわかった発表だった。さらに、僕が長く忘れていたデザイン批評家あるいは美学哲学者的魂も呼び戻した。古典的美学とロマン派美学、と考えて、「そのあたりは奥出さんの判断に任せるとして、僕は」と山中さんが言ったときに、ああ、山中さんは機械マニエリズムだったんだ、と感動した。批評家的感性がよみがえった。

いま普通にSUICAを駅の改札口の機械にタッチして駅に入っていると思う。あの機械は山中さんのデザインである。13.5度の傾斜が付いている。エルゴノミックスとかユーザービリティというつまらない話ではなく、美しいデザインで人々の行動の中にとけ込んである。
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こうしたデザインを行う3つの原則を山中さんは話した。

その1 構造をデザインする

形を描こうとしてはいけない。構造を描くことで自然に形が生まれる。山中さんはスポーツマンガを大学時代に書いていたのだが、そのときスポーツをしている人間を描くためには骨格が大事だと気がついたという。

山中さんのデザインスケッチはダビンチと同じダイナミズムがあるのだが、なるほど、人間の骨格、メカニズムなんだな、山中さんのポイントはと分かった。つまり、有機的なスタイルをあたえるよりも、洗練されたメカニカルな設計の達成によって、結果的に有機的になる事が大切だといういうのが山中さんの美学なのだ。

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その2 生命感をデザインをする

「マンガが実物とにない点においてまさに実物自身よりも実物に似るというパラドキシカルな言明はそのままに科学上の知識に抵抗することが出来る」と寺田寅彦の言葉を引いた。このあたりは知性を感じるね。寺田寅彦は日本語の散文のスタイルを作り出した。夏目漱石の弟子であり、物理学者だ。彼の弟子達は「ロゲルリスト」というグループを組んで活動した。僕の中学高校時代の愛読書だ。ニュートン物理学からどのように脱出していくのか、量子力学の考え方は僕たちの日常生活の意識にどのように影響をあたえていくのか、ここが一番大切。稲見さんも、稲見さんの先生の舘さん(いまKMDの先生!)もここが一番肝要なことをわかって活動をしている。ここをどうやって教えるかは僕も一番気をつけているところだ。

だが「SFC生はどうしてこんなに数学が出来ないんでしょう」と山中さんの発言。そう、そこが悲しい。一番本質的なところにいるSFCの学生は数学が出来ないからこの問題が分からない。僕の答えは「いまKMDではここをしっかりと教える努力を始めました」。学生の無知を批判しても始まらない。分からなければ教えよう。でも分数までは理解していてね。微分方程式、離散数学、確率過程、などなどはゼロからおしえるから。

さて、生命感をデザインするために、いきものっぽさの抽出を試みて、働かないロボットをいくつか作った。それを紹介した。ポイントはメカニカルな動きをしているのに、それが有機的に見えること。ここはポイントだね。たしかに機械なんだけど生命を感じる瞬間がある。つまりバウハウスから20世紀のデザインを支配してきた機械美学を山中さんは踏襲すると言っている。で、問題はいままではあまりに稚拙な機械技術だからたいしたことはなかった。だが制御工学がここまで発達すると、機械の仕組みで生命観がデザインできる、というわけです。たしかにね。面白いし、作品は説得力があった。

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その3 応答をデザインする

レイテンシーが無いことが大切。紙をテーブルに置くと、カメラがそれをセンサーしてすかさず紙に情報を投影する。この仕組みを上手にデザインして非常に魅力的なインタラクションデザインを行っていた。機械美学で要求される厳密さをデジタルに反映するとデザインが変わるのだ。これもいいね。

さて、プレゼンの最後はiPhone Babyのビデオだった。1歳半の赤ん坊がiPhoneを自在につかう様をビデオで報告。「これを見せると、これしか覚えていないかも」と山中さんは言ったがかなり衝撃的な映像。デザインとは?という問題を考える糸口になる。

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という感じで山中さんのプレゼンはおわり、稲蔭さんが話した後、質疑応答となった。フロアからの質問への山中さんの答えが面白かった。彼はアーチストと科学者あるいはエンジニアは方法があまりにも違うと言う。したがって両方を混ぜない方が良いと述べる。二つのことなることを一人の人間が行うことで到達する領域がある。けんかを意識的に裁く。お互いに殺し合わないようにする。これが山中さんのポジションだなあと思って聞いた。

エンジニアリングは基本的に魔術師だ。だがその背後にある科学に関しては、山中さんは非常にかちっとした態度を取っている。僕は実はその科学観が大きく変わっているところが大切だと思っているのだが、山中さんはそうは考えない。なぜなら「20世紀初頭にモダニズムで考えたことは、その実現方法があまりに粗雑で違ったものになっている。いま技術が進み、繊細な制御が出来るようになり、ようやくきちんとした表現が出来るようになった」と考えるからだ。この考え方には一理ある。それが、まさに機械マニエリズムと、評論家の僕としては呼びたいところなのだ。

しかしiPhoneBabyのビデオは、機械時代のデザインを超えていく可能性をもっている。そこに気がついているのも山中さんなのだ。iPhoneにはボタンが一つしかない。iPhoneはもう独立したプロダクトとしてはデザインされていないのだ。デザイン言語をフィジカルな存在にしていない。だから赤ん坊でも使える。では様々な利便性や感動を与える構造を担っているのはなにか。それはソフトウェアである。デザインに構造は必要だが、それはフィジカルな構造とは限らない。何をフィジカルに、何をソフトウェアに配置するのか。それはデザイナーの哲学や好みを反映する。

山中さんはここまで分かった上で、フィジカルなデザインの可能性を追求すると宣言していた。まさに機械マニエリズム宣言であった。
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by naohito-okude | 2010-02-19 21:51 | 講演会・展示会
久し振りのblog.最近Twitterばかりだったが、これからはこちらも。
今日はユビキタスコンテンツシンポジウム 2010。サブタイトルはデザインとエンジニアリングの境界線。
慶應大学メディアデザイン研究科の稲蔭正彦教授のもとに5年間かけておこなった研究の総括。僕は理論の構築をおもにおこなった。理論から実際のデバイス、そしていくつもの作品、さらにはその制作方法までを網羅した非常に珍しい研究である。

http://xtel.sfc.keio.ac.jp/jp/2010/01/_2010.html

10:40 - 12:10 「親しみのデザイン」
           石黒 浩 大阪大学大学院 基礎工学研究科 教授
           奥出 直人 慶應義塾大学 メディアデザイン研究科 教授
           司会 稲蔭正彦
  12:10 - 13:30  休憩
  13:30 - 15:00 「美しさのデザイン」
           山中 俊治 慶應義塾大学 環境情報学部 教授
           稲蔭 正彦 慶應義塾大学 メディアデザイン研究科 教授
           司会 奥出直人

の順番で話をした。

さて、石黒浩さん。

2010年の映画『サロゲート』の冒頭で映っているシーンがあるロボット研究者である。自分と同じロボットをネットワークで使って人間とは何かを研究している。そのいみで、自分の代わりにロボットに仕事をさせている未来を映画にした「サロゲート」そのものなのだが、彼の立てている議論は非常に面白い。

ロボット特に人型ロボットというと知能を持っていることが前提だが、彼の提案するロボットは意思を持たない。新しいコミュニケーションディバイスである。非常に精巧な機械の表面にプラスチックの皮膚をつける。そして、それをアクチュエーターで制御して表情を作る。

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彼のポイントはこの表情をもつアンドロイドを見て人間はどう反応するか、である。その分身を自分の延長だと意識したとたんに、身体が反応する。つねられるとつねられた気がするのである。ミラーニューロンの働きだ。

人間は無意識に身体を動かしている。そうした特徴も埋め込み、人間そっくりにつくっていく。石黒氏は機械工学と材料工学が一緒になった学科で勉強をしてきたそうで、その両方で学んできたことがこの研究にはよく反映している。ロボットというと、ロボットらしいデザインをする傾向があるが、あくまで人間ににている、外見に似ていることにこだわって研究を続けてきた。三菱重工がかつてつくっていた「wakamaru」というロボットがある。愛知万博に出展された。その中身は石黒氏が開発したそうだ。だが、外見はプロダクトデザイナーの喜多俊之さんである。石黒さんは「ロボットらしい」デザインの代わりに、当時4歳だった娘とそっくりの外観のロボットをつくった。
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実際に娘さんと対面させたところ、「気持ちが悪い」といったそうだ。その後さらに研究を続け、30代の女性そっくりのアンドロイドを作る。
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さて、石黒氏のすごいところは、このアンドロイドをつかって哲学的な考察、つまり人間とは何かをかんがえていくところである。いくつも著書がある研究者だが、その議論は面白い。まず一番大切なところは、アンドロイドは機械であり、制御の技術が非常に進んだ現在では凡庸な人間の表現力を超えることが出来る。一流の役者のように悲しみや喜びの表情を作ることが出来る。悲しみの精神をもつのではなくて、悲しみの表情をつくることができるのだ。

また壊れていくアンドロイドや修理をしているアンドロイドをみると、生きているとしか思えない。解剖図をみているような奇妙な感覚にとらわれる。このあたりバーバラ・スタフォードの『ボディ・クリティシズム—啓蒙時代のアートと医学における見えざるもののイメージ化 』の示した18世紀的知性が身体の内部を切り開くことで形成されたことをうけて、我々は身体を外在化させていくことで新しい知性を生み出す可能性を感じさせる。修理を受けるアンドロイドは実に生々しい。

これは実は演劇あるいは演出術とも通じる。人間を感動させるために演出家は俳優に演技を指導するが、そのときに、役者には心は必要ない。だがこの考えをさらにすすめると、人間にも心は無いかもしれない。石黒氏はドレイファス、ウィノグラード、サールなど現象学に大きく影響を受けている反人工知能研究者と非常に近いところに存在していることが分かる。

さらに感動的なところは、いわゆるロボットデザインから脱却して、「似ている」ということに注目して研究を続け、その結果、「似ている」と感じる感覚を探り、何処まで似ていると似ていると感じるのか、というアナロジー思考にまで踏み込んでいるところだ。ロボット研究の哲学的な側面を深く追求している。非常に面白い。今度彼の著作をまとめて読んでみよう。
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by naohito-okude | 2010-02-16 10:38 | 講演会・展示会