奥出直人のJazz的生活


by naohito-okude

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3月16日。未来館、メディアラボ第6期展示「ジキルとハイドのインタフェース」オープニングパーティに行った。ジャズ歌手の深山エダさんとまずは泡を稲見昌彦さんに届けた。

公開時期 2010年3月17日(水)~2010年6月14日(月)の長期展示である。
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稲見さんの研究の一番のすごみはエンジニアリングの技術によって我々が身体性をもっていることを強烈に自覚させるところにある。そのポイントは人間の知覚の仕組みそのものにインターフェイスをする仕掛けを作ることにある。

人間の身体は複雑な仕組みで外界を知覚して「リアル」だと感じている。外部に存在している情報量に比べて圧倒的に非力な感覚器官をつかって外界を知覚しているにもかかわらず、我々の身体はそれを現実と、あるいはそこに存在していることをまったく疑えないようなリアリティを感じている。身震いをしたり感動したり、歓喜に喜び、恐怖におびえ、悲しみに涙する。

要するに人間は情報をセンサーして、その情報をつかって自分の世界を自分の意識のなかに生み出し、その幻想の世界に身体を直接つなげていろいろなことを「リアリティ」と感じている。『マインドタイム』や『ユーザーイリュージョン』といった本がこの世界の仕組みを分かりやすく説明してくれている。
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この二冊の本が教えてくれるということは我々は実際におこっている現象より少し遅れて「リアリティ」を頭の中に生み出しているということである。その時間差に精密にインタラクションの仕掛けを埋め込むと、人間が作り出す幻想を制御することができる。その制御は身体が感じているリアリティの制御につながる。ではそれはどのような制御なのか、さらにはその制御技術によって我々が獲得する新しい身体的現実感とはどのようなものなのか。ここを探るのが稲見氏の研究の核心である。コンピュータ世界と人間の「現実」世界をつなぐといった簡単な研究ではない。

我々は自然界はニュートン的力学によって構成されていると普通に考えている。だが、ニュートンが錬金術師デザリエとおこなった光の実験の基本にあるレンズを例にとると、レンズは小さい物を拡大する。すると、拡大された微少な要素が主体でそれがものごとの原因だと普通は考える。その細部の相互作用としてマクロな現象を考える。つまりは微分して細部を探し、その結果を積分してマクロにするのだ。分解と再構成である。だが、ホログラムを例にとると、局所の情報が全体の情報と同等である。これはどういう訳か?これはデービッド・ボームの『全体性と内蔵秩序』(青土社1986年)で展開されている議論だ。佐藤文隆氏の『量子力学のイデオロギー』によると、観測機器の問題と細部に分割できない秩序が存在していることの非常にうまい説明だとある。観察機器によりリアリティが変わり、またその現象は分割できない。

この「リアリティ」の世界にどのように踏み込んでいくか、は確率過程モデルの問題と、科学と人間の意識の両方を扱うというあたらしい哲学モデルの検討が必要になり、これこそが僕が稲見君と2年前から一緒に仕事をするようになって、一番興奮する共通のテーマなのだが、ここを詳しく論じるのはまたの機会にする。『マインドタイム』と『ユーザーイリュージョン』で議論されているテーマであり、これを「学術」テーマとして議論するまで日本のデジタルアカデミズム(?)はまだ成熟していない。だからフロンティアで面白いのだけれど。

さて、観察機器という名前はあたかも自然現象があってそれを「観察」して真実を得る、という響きがある。だが、「リアリティ」創出機器と見なすと、「ジキルとハイドのインタフェース」で展示されているインターフェイスはすべからく「観察機器」である。そしてそれによって我々が感じるリアリティは分割不可能な量子力学的世界の話なのだ。そしてそのリアリティを楽しんでもらおうというのが展示会の狙いだ。

稲見君と入り口で記念写真をとった。白と黒、ジキル氏とハイド氏のメタファーだ。だが白と黒とはニュートンが光を7色に分解した方法に対して、ゲーテが反論した根拠でもある。

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ゲーテの色彩論は、機械論的世界観への反論である。ニュートンの光学では、光は屈折率の違いによって七つの光に分解され、人間はそれを感覚中枢で色彩と認識すると考える。ゲーテは色の生成は光と闇だと考えた。白と黒である。白と黒の相互作用の中で色彩は成立するとゲーテは論じた。光は自然界の光を分析するだけでは理解できない。それを知覚した人間の身体の働きも関係している。人間は自然界の光の成分のほかに明るさと暗さという両極にあるものを活用して、ダイナミックに色彩を生み出し経験している。グレーのところにリアリティがあるのだ。なのでポスターにグレーが使われていて、そのダイナミズムのなかに人間があることを示しているのが、顔にも見えるこのポスターのデザインである。

さて、ホログラムやVirtual Realityの研究はコンピュータグラフィックスというニュートン的というかデカルト的空間の中でリアリティを獲得しようとする試みであった。稲見さんも初期にはこうした方法で研究を続けていた。だがあるとき、現実にある物体とコンピュータが生み出すイメージをつなげると、人間が「リアリティ」を身体的に感じる現象を作り出すことができることを発見する。その経験は身体が確実に理解して、感動したり恐れおののいたり(ジキルとハイド)するのだが、いままでどこにもないものである。身体が外的情報を処理して「リアリティ」という幻想を生成するわずかな時間差にエンジニアリング技術(観測機器)で介入する。

《オーギュメンテッド・コロシアム》 (2005)

これはプロジェクタから投影されたCG映像と、ラジコンカーがリアルタイムで連動して対戦型ゲームができる作品である。これはあたらしいリアリティを感じさせる装置として、プロジェクターをつかってラジコンの車の位置を正確にセンシングして、そこにコンピュータグラフィックスを重ね合わせる。ここで得られるリアリティは、コロシアムというタイトルが示すように、人間の知覚空間(周辺視まで含んだ空間)のなかにローマのコロシアムのように全体的な存在感がすぽっと浮き上がる。戦いのリアリティが身体的に感じられる。
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《リラティブ・モーション・レーシング》 (2007)

Webサイトの説明によると、「車型ロボットが、ディスプレイに表示された道路の上の指標画像を読み取り、その上に乗るようにして走行する。ロボットの動きが実際よりダイナミックに感じられる。」とある。モニター上におかれているコンピュータグラフィックス上の車の位置に車型のロボットを置き、その位置を正確にセンシングして、一方でコンピュータグラフィックス上にも車を走らせたり、カーブや直線などの複雑なコースを再現する。コンピュータグラフィックスの中の世界をロボットの車が走っていく。意識をもったおもちゃが動き回る世界が目の前に再現する。生きたおもちゃである。このファンタジーはすごい。

《光学迷彩》 (1998)
「物体を光学的にカモフラージュする技術。物体の背後の映像をプロジェクタで投影し、あたかも透けたように見せる。」である。稲見君を世界的に有名にした作品のヴァージョン2。自分の身体がなくなってしまうことによって生じる新しいリアリティにかんしては、H・G・ウェルズのSF小説『透明人間』によって19世紀末に描かれている。スティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』から薬品によって人間が変身するというアイディアを得て、人間の心にひそむ暗黒面を外見の変化で表現したと言われている。今回実際に体験してみた。いや、びっくり。消えた。身体性が消失したリアリティというのも奇妙な話だが、なかなかセンセーショナルな経験であった。

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そのほかにもいくつか展示があった。全体のアプローチは同じである。人間の5感に入る情報をエンジニアリングで操作して身体が感じるリアリティを演出していく。ここにルネッサンス時代のエンジニアリングと同質のものを感じる。機械主義的な世界観に毒されるまえのエンジニアリングは、芸術を表現する技術ではなくて、人々に身体的リアリティを提供する方法だった。ファンタスマゴリアという言い方にあるように全体性をたもってファンタジーを人々に提供する方法であった。自然界の真実を暴く技術でも、機械仕掛けの装置を構築する方法でもなかった。いまデジタル技術によって再び、人々に楽しい、あるいは時としておそろしいリアリティを提供する役割を獲得しつつある。これがまさに今回の展覧会のエッセンスである。まとめてみると稲見君の考え方がよくわかる。実に面白い。
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by naohito-okude | 2010-03-18 10:54 | 講演会・展示会