奥出直人のJazz的生活


by naohito-okude
哲学するための多言語学習日記 第1週

昨年から何度か調整してきた多言語学習であるが、どうにかペースにのりそうなので、暫くblogに書いてみることにする。


本blogでは哲学するための多言語学習について実践的に考えてみたい。西洋哲学を学び東洋哲学を知る。21世紀グローバル化が進む中、一体僕たちはいや、僕はどう生きていくべきなのか、今ある問題をどのように考えていけばいいのか。数ある哲学書はそうした問題に適切に答えてくれる。多くの哲学者が人生をかけて考え抜いた哲学書はなによりもの宝だ。

西洋哲学の大きな流れ、とくに20世紀後半に登場した反哲学の流れを勉強することは日本語でも可能だ。僕が大学生の時から親しんだ木田元氏は魅力的な哲学書を書いている。また同年代の岡田温司氏はフランス現代哲学のあと思想界を引っ張ってきたイタリア哲学について分かりやすく体系立てて紹介し、必要な翻訳を提供している。また多くの哲学は英語で読むことが出来る。だが、英語に紹介されている思想だけではいま直面している問題を考えるにはちょっと足りない感じがしている。

大学院に入ったばかりの頃、師匠である鈴木孝夫氏に、哲学を勉強するにはギリシャ語やラテン語が必要なのではないかと聞いたことがある。そうか、では聞きにいこう、と当時慶應大学でラテン語を教えておられた藤井昇先生の処に連れて行かれた。「で君は何が学びたいのか」と聞かれたので社会や文化の仕組みを調べてみたいとこたえたら、「ならギリシャ語やラテン語を勉強する暇があったら、英語で哲学者の本を読みなさい。ラテン語を勉強することは無駄です。必要なことは全部英語で読める」とおっしゃった。

で勉強しなかった。フランス語はまあ苦手ではなかったので、ベルグソンの『笑い』をフランス語で読み切って大学院の入試に備えたりした。だが、英語圏で博士号を取り、とくに国際的な活動をすることもなく慶應大学で教鞭をとり、コンピュータに夢中になり、英語だけで世界をみて、30年になる。フランス語はすっかり忘れた。その間日本の哲学者の語学能力は向上して多くの良書を日本語で読むことが出来た。

コンピュータと思考のメカニズムに関しては大分早い時代から刺激を受けて、大学時代に夢中になっていたフランスのデコンストラクション哲学との関係にも影響をうけ、井筒利彦デリダのやりとりに影響を受けて『思考のエンジン』を書いた。また、とくにここ10年、現象学をデザイン手法に取り入れた研究を行ってきた。哲学者ではないが、哲学とは常に関わってきたわけだ。だが、英語で議論されている哲学を参考に自分の世界を構築していく作業もなんだか先がない感じになってきた。

グローバル化するなかで母語ではない英語をつかってコミュニケーションを行い、研究をする中で、それ故に気がついてきたところがある。それは英語ではすくいきれない世界があることだ。その世界に気がつかせてくれたのはグローバル化した英語のおかげだ。だが、コミュニケーションのための英語によってアクセス可能になった英語ではコミュニケーションできない世界、そこに異邦人として紛れ込み文化の違いに幻惑されて新しい哲学の可能性を探していきたい、と思い始めた。

本書ではイタリア語、フランス語、ドイツ語、ラテン語、ギリシャ語、と独学していく。並行して英語の上級への挑戦も行っていく。基本的には哲学の本ではなくて語学独学の書である。また言語の達人を目指す本ではない。55歳を過ぎてからの外国語学習だ。そんなに上手くなるはずもない。だが世界は確実に広がるはずだ。メディア技術の発達により、音声教材が充実した。それによって、多言語世界は語学の天才だけのものではなくなった。理屈はこのくらいとして、始めるとしよう。

第1週

2010年8月31日(火曜)

今日が多言語学習第1日目。


イタリア語

イタリア語は過去に学んだことがないので、この段階は耳をつくる。 外国語の学び方はいろいろある。だが、西洋語を学ぶ最良の方法は音から入ることだ。ローマン・ヤコブソンは音韻論を確立した大家だが、人間が言語に用いている音は単独に存在しているわけではなく、相互に関係して一つの体系をなしていると述べた。この発見はたいしたもので、国際発音記号(IPA: International Phonetic Alphabet)をみるといつも感心する。人間は確かに音韻を意識して発音をしている。クロード・レヴィ=ストロースはこれを大発見と称えると共に、『構造人類学』で人間の文化の認識も音韻論のように構造化されていると主張した。そんなわけないだろう、現象はもっと多様で豊かだと批判をしたのがジャック・デリダである。彼は『グラマトロジー』でレヴィ=ストロースを切って捨て、ついでにヤコブソンもロゴス中心主義者として批判した。システムで抽出されていない状態の表現をデリダはエクリチュールと呼んだのだ。

僕は基本的にはデリダに影響されて哲学を学び始めた。このあたりは『思考のエンジン』に詳しいが、だからといって語学学習においてヤコブソンの考えを否定しているわけではない。コミュニケーションに使う言語の音は確かに構造化されている。とくに西洋語ではそれが顕著だ。その音をアルファベットで表記したことには相当無理がある。だがそのアルファベット表記でいわゆる哲学的認識が可能になったということも事実だ。さらにこの構造を意味に展開するに当たっては結構無茶な感じがする。ここには何度も戻っていくのでいまはこのくらいにしよう。

語学の教育方法はいろいろな流れがあり、これも追々紹介するが、いわゆる初級の語学書をみると簡単な挨拶から始まるものが多い。だが研究のための語学習得としては、これは遠回りだ。挨拶は結構難しく、それを母語とするひとにとっては当たり前でも、外国人にとっては難しい。挨拶や簡単なやり取りを暗記すればそれっぽくコミュニケーションは成り立つが、それから先には進まない。なので初級の教科書を選ぶときには工夫が必要である。初級文法にCDの組み合わせがいい。音・文法・語彙の順番で勉強を進めるのだ。会話の入門書から外国語を学ぶことは実はとても難しい。

耳できいて音になれる。これが大事だと思う。というわけで、いくつかある語学入門書から『イタリア語初歩』を選んだ。CDをリップしてiTuneに入れる。頭から聞いていく。1回聞くと1時間。少し前から、気が向いたときに聞いていて、今日で5回めだが、音が大分なじんできた。

フランス語

フランス語は37年前、高校3年生の時に学び始めた。大学に入ると最後の学生運動で大学がバリケードで封鎖されており、することがなかったのでアテネフランセに通った。そこでいろんな奴に会い、いろんな事を知った。語学だけではなくて伊丹十三のエッセイを知ったのも、『日常生活の冒険』のなかのヘンリー・ミラーの小説本を半分に折るひみこについて言及しながら大江健三郎を語ったのも、フランスの数学者グループ「ブルバギ」を知ったのもアテネフランセ時代だ。中学校の3年生くらいから大江健三郎を読み、フランス「文学」や哲学に親しみがあった。高校2年生の頃にはレヴィ=ストロースとフーコーが日本に紹介された頃である。外国への留学は船で行っていた時代よりはましだったがそれでも社会的にも経済的にもなかなか難しくて、留学生試験に受かることが普通の学生にとっては留学の唯一の方法だった。フランス政府給費留学生とか産経スカラシップとかが主な奨学金だった。アテネフランセにはそうした野心に満ちた青年が何人かいた。

ここでフランス語は大分勉強したが、26歳でアメリカに留学して使わなくなり、さっぱりと忘れてしまった。過去25年くらい、忘れてしまうのはもったいないなあと思って何度か教科書をやってみたがなんだかめんどくさくてすぐに放り投げてしまった。語学の教科書は練習問題があって、基本的にはパターンプラクティスで勉強させる方法を相変わらず踏襲しており、教科書は厚いが学習の進捗は遅々としている。

メルロー・ポンティという哲学者がいる。日本でも研究者が多いフランスの現象学者だ。僕はコンピュータを使ったインタラクションデザインを研究している。現象学的設計論と呼んでいるが、要するに人間が身体の延長として自然に感じることが出来る「道具」をコンピュータをつかってプログラムすることで作るということである。この分野を始めたのはスタンフォード大学のウィノグラードという人で彼はハイデッガーの現象学を用いて新しい設計手法を提唱した。彼が援用したハイデッガーは、カリフォルニア大学の哲学者であるドレイファスが英語にしたものである。ドレイファスのハイデッガー解釈に関してはいろいろな立場があるようで、日本ではほとんど無視、の状態だが、コンピュータが作り出す環境に人間が住むことが出来ないことを現象学の立場から批判する面白い学者だ。コンピュータに内在する問題ではなく、それはコンピュータの使い方によるのだ、というのが現象学的設計論の立場である。この話は別のところで詳しくするとして、ハイデッガーの現象学はいま僕たちがパーソナルコンピュータを使っているときのインターフェイスの設計の基本理論として使われているが、そのことを特に気にしてもいない。

いまコンピュータが画面とキーボードである時代がおわり、コップや机やドアや窓になってしまう時代が来ている。道具と言うより生活環境になろうとしている。そのときに人間と道具の問題を考えて哲学の流れを大きく変えたハイデガーの思想だけだとすこし、というかかなり不足するところがある。ものを作る、人間が世界を構築する、その方法が変わっているのだ。この世界について最初に考え始めたのがハイデガーの影響をうけたフランスの哲学者達である。とくに身体と知覚の問題について深く展開してきたのがメルロ・ポンティだ。日本では木田元氏達の翻訳が昔からあり、よく知られている哲学者だ。英訳も多い。

だが、もう一つぴんとこない。じゃあフランス語で読んでみようか、というのが再学習の動機である。比較的慣れている外国語なので、入門の教科書をいくつか比べてみた。最終的に『フラ語入門、わかりやすいにもホドがある』清岡智比古を選択した。ちょっとふざけたタイトルだがとても良い。同じ著者が出している教科書よりこちらがいい。CDは一時間ちょっと。いままで40回くらい繰り返して聞いて、大分音にはなれた。ちなみに音を学習するときに初級の文法書を使うのが大切である。会話とか単文だと情報量が多くてめんどくさい。簡単な文章から徐々に難しい文章へ、ドリルをしながら積み上げていく方法ではいつまで経っても出来るようにならない。音が理解できるようになったら初級文法を一気に終了させるのがいいのだ。で今日から文法理解へ。こればかりは覚えるしかない。なので日本語をノートに書き出してそれをフランス語で言ってみる。

さて、語学においては文法能力を頭に作ることが大切である。言語学者チョムスキーコンピテンスと呼んだ能力だ。問題は大人になってからその能力を作ることが出来るか、である。英語を小学生から始めた方が良い、という文部省の政策などは大人は外国語を学ぶのが難しい、という考えに基づいている。おもしろいことに、この説に反対する人には英語の達人といわれている人がおおい。たとえば鳥飼玖美子氏などである。母語は小さいときから身に付けるから母語だ。だが人間は母語以外の言語を身に付けることが出来る。流暢に英語を話す日本人は珍しくない。人間の持つ外国語学習能力は非常に不思議だと思う。ここがわかっている英語の達人達は母語をしっかりと作ってから外国語を学ぶという方法を支持しているのだ。また半端なことでは外国語を本当にマスターすることは出来ない。それを知っているのも達人達だ。

言語を学ぶときに言語の置かれている社会的政治的経済的な要素が深く関わってくる。この分野は社会言語学といわれる。英語をとってみても、長い間、西洋人になりたいという気持ちと英語学習が結びついている。あるいは植民地化されて支配され言語を強要されることもある。支配する者とされる者の間でつかっている語彙が違うということもある。この問題とコンピテンス獲得問題には何の関係もないと僕は思っている。コンピテンス獲得はあくまでも人間の能力の問題であり、社会的な背景はその能力を獲得する環境や条件に大きく関わってくる。めんどくさい言い方をしているが、ようするに、だれでも大人になっても、言語能力をつけることは出来る、ということを言いたいのだ。そのレベルは多様だ。テニスでいえばウィンブルドンで試合をする人もいれば、週末に友達と試合を楽しむ人もいる。どちらもテニスである。同じ事である。

というわけで、必要以上に完成度をもとめないで、ゆっくりと文法能力を付けていく。音が単語をつくり、単語が組み合わさって突然全体性を獲得していきた文章となる。聞いたり読んだりしたときに文章が文章として成り立っていることが分かるようになる、それが言語能力、コンピテンス、である。それを作る。これがフランス語の当面の課題である。

英語
英語は語彙を増やす。これにつきる。どうするか方法を模索中だ。

2010年9月1日
今日が第2日目。

イタリア語
6回目 日吉の行き帰りで終了。文法的なところが気になり始めた。大分なれてきた。30回くらいまでこのままで続けよう。

フランス語 

例文を日本語とフランス語で書き写す。初等文法はドリルをやっては非効率だ。いわゆる学校文法の規則には普遍性がない。それをパターン学習方法で繰り返して暗記してもあまり意味がない。それよりは文法で説明できる外国語の文章がそれにそうとうする日本語をみると口をついて出てくるまで鍛えた方が良い。Lesson10まで日本語と相当するフランス語をノートに写す。これを繰り返し読んでいく。暗記をむりにしない。communicative competenceを作る方法として知られている方法だ。何度も繰り返しているうちに覚えるだろう。そのときが分かったときだ。


英語
単語を強制的に増やす方法は文脈に沿って覚える方法と単語帳を使って覚える方法がある。実際はその併用が好ましいと言われている。同じ単語が違う文脈で出てきたときに意味が分かる必要があるからだ。また単語帳だけで覚えていくのは退屈で大変。このあたりを工夫してみようと2種類の教材を注文してみた。

2010年9月2日
今日が第3日目。

イタリア語
7回目。なれてきた。録音に会わせてシャドーイングをしてみる。割と楽になっている。

フランス語
休み

英語
ボキャブラリービルディング用の本、到着。A Kaplan SAT Score-Raising Classic The War of the Worlds by HG Wells. 右頁にテキスト、左頁に単語と発音と意味の説明。まずはこの一冊から単語帳を作ってみよう。

2010年9月3日
今日が第4日目。

イタリア語
8回目。

フランス語 休み

英語

     休み

ギリシャ語とラテン語のCD付き教科書が届いた。

2010年9月4日 土曜日

今日が第5日目。

イタリア語 休み
フランス語 休み
英語 休み


2010年9月5日 日曜日
今日が第6日目。

イタリア語 休み
フランス語
ノート レッスン11
英語
SAT The War of the Worlds Chapter4 まで読了

2010年9月6日 月曜日

今日が第7日目。

イタリア語
9回目

フランス語
ノートLesson 13 まで

英語
SAT The War of the Worlds Ch1 単語帳に転記。

というわけで第1週終了。
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# by naohito-okude | 2010-09-07 06:43 | 外国語
3月16日。未来館、メディアラボ第6期展示「ジキルとハイドのインタフェース」オープニングパーティに行った。ジャズ歌手の深山エダさんとまずは泡を稲見昌彦さんに届けた。

公開時期 2010年3月17日(水)~2010年6月14日(月)の長期展示である。
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稲見さんの研究の一番のすごみはエンジニアリングの技術によって我々が身体性をもっていることを強烈に自覚させるところにある。そのポイントは人間の知覚の仕組みそのものにインターフェイスをする仕掛けを作ることにある。

人間の身体は複雑な仕組みで外界を知覚して「リアル」だと感じている。外部に存在している情報量に比べて圧倒的に非力な感覚器官をつかって外界を知覚しているにもかかわらず、我々の身体はそれを現実と、あるいはそこに存在していることをまったく疑えないようなリアリティを感じている。身震いをしたり感動したり、歓喜に喜び、恐怖におびえ、悲しみに涙する。

要するに人間は情報をセンサーして、その情報をつかって自分の世界を自分の意識のなかに生み出し、その幻想の世界に身体を直接つなげていろいろなことを「リアリティ」と感じている。『マインドタイム』や『ユーザーイリュージョン』といった本がこの世界の仕組みを分かりやすく説明してくれている。
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この二冊の本が教えてくれるということは我々は実際におこっている現象より少し遅れて「リアリティ」を頭の中に生み出しているということである。その時間差に精密にインタラクションの仕掛けを埋め込むと、人間が作り出す幻想を制御することができる。その制御は身体が感じているリアリティの制御につながる。ではそれはどのような制御なのか、さらにはその制御技術によって我々が獲得する新しい身体的現実感とはどのようなものなのか。ここを探るのが稲見氏の研究の核心である。コンピュータ世界と人間の「現実」世界をつなぐといった簡単な研究ではない。

我々は自然界はニュートン的力学によって構成されていると普通に考えている。だが、ニュートンが錬金術師デザリエとおこなった光の実験の基本にあるレンズを例にとると、レンズは小さい物を拡大する。すると、拡大された微少な要素が主体でそれがものごとの原因だと普通は考える。その細部の相互作用としてマクロな現象を考える。つまりは微分して細部を探し、その結果を積分してマクロにするのだ。分解と再構成である。だが、ホログラムを例にとると、局所の情報が全体の情報と同等である。これはどういう訳か?これはデービッド・ボームの『全体性と内蔵秩序』(青土社1986年)で展開されている議論だ。佐藤文隆氏の『量子力学のイデオロギー』によると、観測機器の問題と細部に分割できない秩序が存在していることの非常にうまい説明だとある。観察機器によりリアリティが変わり、またその現象は分割できない。

この「リアリティ」の世界にどのように踏み込んでいくか、は確率過程モデルの問題と、科学と人間の意識の両方を扱うというあたらしい哲学モデルの検討が必要になり、これこそが僕が稲見君と2年前から一緒に仕事をするようになって、一番興奮する共通のテーマなのだが、ここを詳しく論じるのはまたの機会にする。『マインドタイム』と『ユーザーイリュージョン』で議論されているテーマであり、これを「学術」テーマとして議論するまで日本のデジタルアカデミズム(?)はまだ成熟していない。だからフロンティアで面白いのだけれど。

さて、観察機器という名前はあたかも自然現象があってそれを「観察」して真実を得る、という響きがある。だが、「リアリティ」創出機器と見なすと、「ジキルとハイドのインタフェース」で展示されているインターフェイスはすべからく「観察機器」である。そしてそれによって我々が感じるリアリティは分割不可能な量子力学的世界の話なのだ。そしてそのリアリティを楽しんでもらおうというのが展示会の狙いだ。

稲見君と入り口で記念写真をとった。白と黒、ジキル氏とハイド氏のメタファーだ。だが白と黒とはニュートンが光を7色に分解した方法に対して、ゲーテが反論した根拠でもある。

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ゲーテの色彩論は、機械論的世界観への反論である。ニュートンの光学では、光は屈折率の違いによって七つの光に分解され、人間はそれを感覚中枢で色彩と認識すると考える。ゲーテは色の生成は光と闇だと考えた。白と黒である。白と黒の相互作用の中で色彩は成立するとゲーテは論じた。光は自然界の光を分析するだけでは理解できない。それを知覚した人間の身体の働きも関係している。人間は自然界の光の成分のほかに明るさと暗さという両極にあるものを活用して、ダイナミックに色彩を生み出し経験している。グレーのところにリアリティがあるのだ。なのでポスターにグレーが使われていて、そのダイナミズムのなかに人間があることを示しているのが、顔にも見えるこのポスターのデザインである。

さて、ホログラムやVirtual Realityの研究はコンピュータグラフィックスというニュートン的というかデカルト的空間の中でリアリティを獲得しようとする試みであった。稲見さんも初期にはこうした方法で研究を続けていた。だがあるとき、現実にある物体とコンピュータが生み出すイメージをつなげると、人間が「リアリティ」を身体的に感じる現象を作り出すことができることを発見する。その経験は身体が確実に理解して、感動したり恐れおののいたり(ジキルとハイド)するのだが、いままでどこにもないものである。身体が外的情報を処理して「リアリティ」という幻想を生成するわずかな時間差にエンジニアリング技術(観測機器)で介入する。

《オーギュメンテッド・コロシアム》 (2005)

これはプロジェクタから投影されたCG映像と、ラジコンカーがリアルタイムで連動して対戦型ゲームができる作品である。これはあたらしいリアリティを感じさせる装置として、プロジェクターをつかってラジコンの車の位置を正確にセンシングして、そこにコンピュータグラフィックスを重ね合わせる。ここで得られるリアリティは、コロシアムというタイトルが示すように、人間の知覚空間(周辺視まで含んだ空間)のなかにローマのコロシアムのように全体的な存在感がすぽっと浮き上がる。戦いのリアリティが身体的に感じられる。
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《リラティブ・モーション・レーシング》 (2007)

Webサイトの説明によると、「車型ロボットが、ディスプレイに表示された道路の上の指標画像を読み取り、その上に乗るようにして走行する。ロボットの動きが実際よりダイナミックに感じられる。」とある。モニター上におかれているコンピュータグラフィックス上の車の位置に車型のロボットを置き、その位置を正確にセンシングして、一方でコンピュータグラフィックス上にも車を走らせたり、カーブや直線などの複雑なコースを再現する。コンピュータグラフィックスの中の世界をロボットの車が走っていく。意識をもったおもちゃが動き回る世界が目の前に再現する。生きたおもちゃである。このファンタジーはすごい。

《光学迷彩》 (1998)
「物体を光学的にカモフラージュする技術。物体の背後の映像をプロジェクタで投影し、あたかも透けたように見せる。」である。稲見君を世界的に有名にした作品のヴァージョン2。自分の身体がなくなってしまうことによって生じる新しいリアリティにかんしては、H・G・ウェルズのSF小説『透明人間』によって19世紀末に描かれている。スティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』から薬品によって人間が変身するというアイディアを得て、人間の心にひそむ暗黒面を外見の変化で表現したと言われている。今回実際に体験してみた。いや、びっくり。消えた。身体性が消失したリアリティというのも奇妙な話だが、なかなかセンセーショナルな経験であった。

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そのほかにもいくつか展示があった。全体のアプローチは同じである。人間の5感に入る情報をエンジニアリングで操作して身体が感じるリアリティを演出していく。ここにルネッサンス時代のエンジニアリングと同質のものを感じる。機械主義的な世界観に毒されるまえのエンジニアリングは、芸術を表現する技術ではなくて、人々に身体的リアリティを提供する方法だった。ファンタスマゴリアという言い方にあるように全体性をたもってファンタジーを人々に提供する方法であった。自然界の真実を暴く技術でも、機械仕掛けの装置を構築する方法でもなかった。いまデジタル技術によって再び、人々に楽しい、あるいは時としておそろしいリアリティを提供する役割を獲得しつつある。これがまさに今回の展覧会のエッセンスである。まとめてみると稲見君の考え方がよくわかる。実に面白い。
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# by naohito-okude | 2010-03-18 10:54 | 講演会・展示会
「美しさのデザイン」と題して、山中 俊治 慶應義塾大学 環境情報学部 教授のプレゼン。
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山中さんは東京大学工学部出身にもかかわらず日産にデザイナーとして採用されて、自動車のデザインを行っていた。その「華麗(?)」な経歴から早くから注目されていたが、その後独立したデザイナーとなった。20年ちょっとまえのことだ。
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僕はそのころデザイン評論家として積極的に活動をしていた。いろいろなシンポジウムや会合で一緒になることが多く、そのころからの知り合いである。そのころ書いた評論のうち長いものは「トランスナショナルアメリカ』や『アメリカンポップエスティックス』にまとめてあるので、興味のある人は読んで欲しい。またこのころIDEOのBill Moggridge 氏がインタラクションデザインというまったく新しい方法を提案して、実際にデザインをおこなってみせた。
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それを日経のある雑誌で批評したことが縁で彼と知り合い、彼の下で働いていた現在IDEOのCEOであるTim Brownを紹介される。彼と一緒に日本で「デザインクエスト」と題したワークショップを行った。企業のインハウスデザイナー中心のワークショップである。まだデザイン思考という言葉になるまえだが、プラクティスから知を生み出す方法に僕はかなり衝撃をうけた。
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またTimもこのときに方法論の汎用性に気がついたのではないかと思っている。「アフターファイブの仕事でやる」つまり無料でやるよ、これは面白いしIDEOにとっても大事だ、と言ってくれたのを今でも覚えている。サンフランシスコのオフィスで働いていた深沢直人さんにあったのもこの頃である。デザインクエストの最終日にシンポジウムを行い、Timと僕と山中さんで話をした。それから随分時間がたったのか、一瞬でいまにいたるのかよくわからないが、いま慶應で同僚になっているのはなかなか感慨深いものがある。

デザインという行為は魔術ににて、いや魔術であり、人を幻影の中に引き込む。僕はその魔術をインタラクション環境でおこないたいと15年ほど本当に暗中模索してきた。Crestの5年間でこのくらいトンネルから抜け出た気がしている。なにがインタラクションデザインか、どのように表現をしていけばいいのか、分かった。それは今回のシンポジウムで配られている冊子のなかで僕が書いた理論の章に詳しく書いたのでここでは省略しよう。

さて、僕はデジタル環境の中に魔法をもとめて試行錯誤してきたが、山中さんは物理的な環境でデザインを追求してきた。そのことが非常によくわかった発表だった。さらに、僕が長く忘れていたデザイン批評家あるいは美学哲学者的魂も呼び戻した。古典的美学とロマン派美学、と考えて、「そのあたりは奥出さんの判断に任せるとして、僕は」と山中さんが言ったときに、ああ、山中さんは機械マニエリズムだったんだ、と感動した。批評家的感性がよみがえった。

いま普通にSUICAを駅の改札口の機械にタッチして駅に入っていると思う。あの機械は山中さんのデザインである。13.5度の傾斜が付いている。エルゴノミックスとかユーザービリティというつまらない話ではなく、美しいデザインで人々の行動の中にとけ込んである。
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こうしたデザインを行う3つの原則を山中さんは話した。

その1 構造をデザインする

形を描こうとしてはいけない。構造を描くことで自然に形が生まれる。山中さんはスポーツマンガを大学時代に書いていたのだが、そのときスポーツをしている人間を描くためには骨格が大事だと気がついたという。

山中さんのデザインスケッチはダビンチと同じダイナミズムがあるのだが、なるほど、人間の骨格、メカニズムなんだな、山中さんのポイントはと分かった。つまり、有機的なスタイルをあたえるよりも、洗練されたメカニカルな設計の達成によって、結果的に有機的になる事が大切だといういうのが山中さんの美学なのだ。

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その2 生命感をデザインをする

「マンガが実物とにない点においてまさに実物自身よりも実物に似るというパラドキシカルな言明はそのままに科学上の知識に抵抗することが出来る」と寺田寅彦の言葉を引いた。このあたりは知性を感じるね。寺田寅彦は日本語の散文のスタイルを作り出した。夏目漱石の弟子であり、物理学者だ。彼の弟子達は「ロゲルリスト」というグループを組んで活動した。僕の中学高校時代の愛読書だ。ニュートン物理学からどのように脱出していくのか、量子力学の考え方は僕たちの日常生活の意識にどのように影響をあたえていくのか、ここが一番大切。稲見さんも、稲見さんの先生の舘さん(いまKMDの先生!)もここが一番肝要なことをわかって活動をしている。ここをどうやって教えるかは僕も一番気をつけているところだ。

だが「SFC生はどうしてこんなに数学が出来ないんでしょう」と山中さんの発言。そう、そこが悲しい。一番本質的なところにいるSFCの学生は数学が出来ないからこの問題が分からない。僕の答えは「いまKMDではここをしっかりと教える努力を始めました」。学生の無知を批判しても始まらない。分からなければ教えよう。でも分数までは理解していてね。微分方程式、離散数学、確率過程、などなどはゼロからおしえるから。

さて、生命感をデザインするために、いきものっぽさの抽出を試みて、働かないロボットをいくつか作った。それを紹介した。ポイントはメカニカルな動きをしているのに、それが有機的に見えること。ここはポイントだね。たしかに機械なんだけど生命を感じる瞬間がある。つまりバウハウスから20世紀のデザインを支配してきた機械美学を山中さんは踏襲すると言っている。で、問題はいままではあまりに稚拙な機械技術だからたいしたことはなかった。だが制御工学がここまで発達すると、機械の仕組みで生命観がデザインできる、というわけです。たしかにね。面白いし、作品は説得力があった。

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その3 応答をデザインする

レイテンシーが無いことが大切。紙をテーブルに置くと、カメラがそれをセンサーしてすかさず紙に情報を投影する。この仕組みを上手にデザインして非常に魅力的なインタラクションデザインを行っていた。機械美学で要求される厳密さをデジタルに反映するとデザインが変わるのだ。これもいいね。

さて、プレゼンの最後はiPhone Babyのビデオだった。1歳半の赤ん坊がiPhoneを自在につかう様をビデオで報告。「これを見せると、これしか覚えていないかも」と山中さんは言ったがかなり衝撃的な映像。デザインとは?という問題を考える糸口になる。

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という感じで山中さんのプレゼンはおわり、稲蔭さんが話した後、質疑応答となった。フロアからの質問への山中さんの答えが面白かった。彼はアーチストと科学者あるいはエンジニアは方法があまりにも違うと言う。したがって両方を混ぜない方が良いと述べる。二つのことなることを一人の人間が行うことで到達する領域がある。けんかを意識的に裁く。お互いに殺し合わないようにする。これが山中さんのポジションだなあと思って聞いた。

エンジニアリングは基本的に魔術師だ。だがその背後にある科学に関しては、山中さんは非常にかちっとした態度を取っている。僕は実はその科学観が大きく変わっているところが大切だと思っているのだが、山中さんはそうは考えない。なぜなら「20世紀初頭にモダニズムで考えたことは、その実現方法があまりに粗雑で違ったものになっている。いま技術が進み、繊細な制御が出来るようになり、ようやくきちんとした表現が出来るようになった」と考えるからだ。この考え方には一理ある。それが、まさに機械マニエリズムと、評論家の僕としては呼びたいところなのだ。

しかしiPhoneBabyのビデオは、機械時代のデザインを超えていく可能性をもっている。そこに気がついているのも山中さんなのだ。iPhoneにはボタンが一つしかない。iPhoneはもう独立したプロダクトとしてはデザインされていないのだ。デザイン言語をフィジカルな存在にしていない。だから赤ん坊でも使える。では様々な利便性や感動を与える構造を担っているのはなにか。それはソフトウェアである。デザインに構造は必要だが、それはフィジカルな構造とは限らない。何をフィジカルに、何をソフトウェアに配置するのか。それはデザイナーの哲学や好みを反映する。

山中さんはここまで分かった上で、フィジカルなデザインの可能性を追求すると宣言していた。まさに機械マニエリズム宣言であった。
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# by naohito-okude | 2010-02-19 21:51 | 講演会・展示会
久し振りのblog.最近Twitterばかりだったが、これからはこちらも。
今日はユビキタスコンテンツシンポジウム 2010。サブタイトルはデザインとエンジニアリングの境界線。
慶應大学メディアデザイン研究科の稲蔭正彦教授のもとに5年間かけておこなった研究の総括。僕は理論の構築をおもにおこなった。理論から実際のデバイス、そしていくつもの作品、さらにはその制作方法までを網羅した非常に珍しい研究である。

http://xtel.sfc.keio.ac.jp/jp/2010/01/_2010.html

10:40 - 12:10 「親しみのデザイン」
           石黒 浩 大阪大学大学院 基礎工学研究科 教授
           奥出 直人 慶應義塾大学 メディアデザイン研究科 教授
           司会 稲蔭正彦
  12:10 - 13:30  休憩
  13:30 - 15:00 「美しさのデザイン」
           山中 俊治 慶應義塾大学 環境情報学部 教授
           稲蔭 正彦 慶應義塾大学 メディアデザイン研究科 教授
           司会 奥出直人

の順番で話をした。

さて、石黒浩さん。

2010年の映画『サロゲート』の冒頭で映っているシーンがあるロボット研究者である。自分と同じロボットをネットワークで使って人間とは何かを研究している。そのいみで、自分の代わりにロボットに仕事をさせている未来を映画にした「サロゲート」そのものなのだが、彼の立てている議論は非常に面白い。

ロボット特に人型ロボットというと知能を持っていることが前提だが、彼の提案するロボットは意思を持たない。新しいコミュニケーションディバイスである。非常に精巧な機械の表面にプラスチックの皮膚をつける。そして、それをアクチュエーターで制御して表情を作る。

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彼のポイントはこの表情をもつアンドロイドを見て人間はどう反応するか、である。その分身を自分の延長だと意識したとたんに、身体が反応する。つねられるとつねられた気がするのである。ミラーニューロンの働きだ。

人間は無意識に身体を動かしている。そうした特徴も埋め込み、人間そっくりにつくっていく。石黒氏は機械工学と材料工学が一緒になった学科で勉強をしてきたそうで、その両方で学んできたことがこの研究にはよく反映している。ロボットというと、ロボットらしいデザインをする傾向があるが、あくまで人間ににている、外見に似ていることにこだわって研究を続けてきた。三菱重工がかつてつくっていた「wakamaru」というロボットがある。愛知万博に出展された。その中身は石黒氏が開発したそうだ。だが、外見はプロダクトデザイナーの喜多俊之さんである。石黒さんは「ロボットらしい」デザインの代わりに、当時4歳だった娘とそっくりの外観のロボットをつくった。
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実際に娘さんと対面させたところ、「気持ちが悪い」といったそうだ。その後さらに研究を続け、30代の女性そっくりのアンドロイドを作る。
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さて、石黒氏のすごいところは、このアンドロイドをつかって哲学的な考察、つまり人間とは何かをかんがえていくところである。いくつも著書がある研究者だが、その議論は面白い。まず一番大切なところは、アンドロイドは機械であり、制御の技術が非常に進んだ現在では凡庸な人間の表現力を超えることが出来る。一流の役者のように悲しみや喜びの表情を作ることが出来る。悲しみの精神をもつのではなくて、悲しみの表情をつくることができるのだ。

また壊れていくアンドロイドや修理をしているアンドロイドをみると、生きているとしか思えない。解剖図をみているような奇妙な感覚にとらわれる。このあたりバーバラ・スタフォードの『ボディ・クリティシズム—啓蒙時代のアートと医学における見えざるもののイメージ化 』の示した18世紀的知性が身体の内部を切り開くことで形成されたことをうけて、我々は身体を外在化させていくことで新しい知性を生み出す可能性を感じさせる。修理を受けるアンドロイドは実に生々しい。

これは実は演劇あるいは演出術とも通じる。人間を感動させるために演出家は俳優に演技を指導するが、そのときに、役者には心は必要ない。だがこの考えをさらにすすめると、人間にも心は無いかもしれない。石黒氏はドレイファス、ウィノグラード、サールなど現象学に大きく影響を受けている反人工知能研究者と非常に近いところに存在していることが分かる。

さらに感動的なところは、いわゆるロボットデザインから脱却して、「似ている」ということに注目して研究を続け、その結果、「似ている」と感じる感覚を探り、何処まで似ていると似ていると感じるのか、というアナロジー思考にまで踏み込んでいるところだ。ロボット研究の哲学的な側面を深く追求している。非常に面白い。今度彼の著作をまとめて読んでみよう。
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# by naohito-okude | 2010-02-16 10:38 | 講演会・展示会
これから暫く21世紀ジャズについて考えていきたい。

1970年から2009年までほぼ40年。この間のジャズの音楽としての展開が十分消化されていないのではないか、というのが執筆の動機である。ジャズ批評の形をとっているが、もっと具体的には自分の耳の再訓練つまりは演奏家としての自己変革のために書いてみたいと思う。アマチュア演奏家である、念のため。

Jazz的生活の中の過去エントリーで
Inner City Jam Orchestra Party

Softwind 高木里代子ライブ


秋吉敏子 ライブ


でいくつかもやもやとしたところを書いた。そのあたりを少しずつ考えていきたい。

DownBeat 誌の2010年1月号で 2000年代のベストCDという特集があった。21世紀ジャズにむけてでは、まず手始めに、このなかで星五つを過去10年でとった100枚ほどのCDやDVDを紹介、議論しながら、70年からのジャズ史の構築と音楽としてのジャズの展開の方向性、技術と表現の問題あたりを論じていきたい。

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さて、この特集の中で、ジャズミュージシャンは2000年代をどう振り返るか、というコラムがあった。非常に参考になるので、この意見をまとめて、21世紀ジャズにむけての始めとしたい。

Eric Alexander

四拍子や三拍子ではないリズムで演奏をすることを好むようになる
単純で力強い即興演奏が好まれるようになる
いままで一緒に演奏されたことのない異質の音楽が一緒に演奏されるようになる。

Uri Caine
いままでにないような音楽の組み合わせで即興演奏をすることが試みられるだろう。
インターネットを使って作った音楽を配信するようになる。
またYoutubeなどで昔のジャズを勉強したり、いろいろな音楽を経験することが出来るようになる。
これが音楽を変える。

Peter Erskine
ジャズマン自身が録音して作品を流通させる「音楽ビジネスの民主化」の動きは止まらない。
ビジネスマンの意見に従わなくても作品を聴衆に届けることが出来る。この仕組みからどのように金銭を得ていくかが大きな問題になる。Fuzzy Musicでは利益を出しており、音楽家にも音楽の制作に関わった人にもそれを配分している。

http://www.fuzzymusic.com/
Nels Cline

ジャズの本質はライブにある。レコード産業が衰退にあることは確かだが、ライブ演奏やツアーの中に未来の音楽の可能性を見るべきではないか。またライブ演奏をインターネットでストリームして遠隔地にいるファンに演奏を聴かせることも可能性として考えられる。ミュージシャンが全部一人でやれば道は開ける。

Dave Douglass

音楽の未来は安泰である。なぜならミュージシャンは自分自身で音楽チャンネルを作って販売することが出来るからだ。そして魅力的な音楽家が増えている。多くの音楽家がどんどん学校を卒業してくることで供給過剰になるという考えは間違っている。より良質の技術をもった音楽家には多くの可能性があるのだ。

John Hollenbeck

現在録音されている音楽は量的には多いが、クオリティは低い。品質の高いグラフィックス、良い音質の録音、胸を打つ音楽を作るには時間をかけなくてはいけない。

Julie Hardy

音楽の聴衆がグローバル化して純粋なジャズファンが減っているので、ジャズはインディのロックやヒップホップ、R&D、あるいはワールドミュージックと融合して行かなくてはならない。ジャズ音楽家が演奏したい音楽と聴衆が聴きたい音楽が変わってきているのだ。

Mike Maineieri

音楽家であり、音楽教師であり、レコードレーベルの経営者であるということは利害が対立するということだ。ツアーにでると、会場でCDを売っているが、いろいろな人からCDを渡されて意見を求められても50枚60枚というCDを聞く時間はない。なのでMP3ファイルで音源を送ってくれと音楽家に言う。一方レコード会社の経営者としてはダウンロードが普及するとビジネスの先行きはよくないなと思っている。音楽家同士がインターネットで連携をとって共同作業を進めていく、といったことが必要になってくると思っている。

Christian McBride

ここ10年の大きな特徴はインディペンデントのレーベルが増えていることである。大きなレーベルはビジネスが出来なくなってきている。自分でレーベルを作って音楽をインターネットで流通させる。結果、よい音楽が沢山作られているがそれを見つけ出すことが難しくなってきている。音楽家が自分で聴衆をみつけるゲリラ戦を行わなくてはいけない。プリンスはこの活動をずっとまえに始めたていた。

Larry Godlings

ここ10年良いアルバムがたくさん売り出されたが、いいものを探すことが非常に難しくなってきている。テクノロジーは音楽を制作する作業は安価かつ安易にしたが、このことがジャズにとって良かったかどうか疑問だ。

Arturo O'Farrill

ジャズが政府や大学から正統なものであるという承認を取り付ける活動はあまり好きではない。自己目的的になって聴衆を失う。地元のライブハウスを支援し、自分自身のレーベルを持ち、フリージャズ、エレクトリックジャズ、ワールドミュージックとの融合を考えるジャズ音楽家から本物のジャズは生まれる。ジャズは進歩して行かなくてはいけない。

Danilo Perez

過去10年は独立レーベルとグローバルがトレンド。多くのCDが自宅録音かライブ録音となった。結果ジャズのCDは膨大な数になった。その一方でジャズのCDの音質は全体的には劣化した。機器の高性能化低価格化で自宅録音の音質向上に今後は期待したい。またグローバル化のなかで、エレクトリック音楽、民俗的音楽、動物などのサンプリング、などなどエキゾチックな要素も取り込んでいくべきだ。

David Murray

ジャズはどんどんわるくなっている。マーケティングの下で何をやっていいのかが見えなくなってきている。音楽にはオリジナリティが必要だ。バークレーでならうことは始まりに過ぎなくて、目的ではない。ニューヨークのジャズシーンでは何ら創造的なことは起きていない。有名になることばかり考えている。もっと深くジャズの事を考えてもらいたい

Bobby Broom

2000年になって以来、ジャズのスタイルが多様化してきている。伝統的なジャズを称えつつも、ジャズ即興演奏のインスピレーションを様々なところに求め始めている。ジャズとヒップホップ、さまざまなエスニック音楽との融合などがはじまっている。アメリカンソングブックに新しい歌を加えようとする活動もあり、またスウィングやブルースの興味も復活してきている。ラジオ放送局が何を放送しているかを調べて、これから何が起こりそうか見るべきタイミングだと思う。

さて、こうして並べて意見をみると、

1: 録音技術が進歩して、自宅でも録音ができるようになった
2: インターネットが進歩して自分で配信できるようになった
3: CDビジネスは衰退しているが、良い音楽を聴きたい聞き手に届けるビジネスシステムが未整備
という問題に加えて、
4:ジャズにグローバル化が押し寄せていて、様々な音楽と融合していく必要がある
5:ジャズと電子音楽を組み合わせた方向にもっと積極的に出て行く必要がある
6:フリージャズも取り込んでいく必要がある。


といった時代的な変化を感じていることが分かる。では2000年から2009年にかけて、ジャズを聴く耳、演奏する意識はどのような方向性を示していたのだろうか。暫く、網羅的に聞いてみたい。お楽しみに。
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# by naohito-okude | 2009-12-27 19:51 | 21世紀ジャズ