奥出直人のJazz的生活


by naohito-okude

秋吉敏子 ライブ

10月20日 火曜日

秋吉敏子ライブ B♭ 

ジャズ音楽評論家の中川ようさんと秋吉敏子さんのジャズピアノソロライブに。ジョン・スウェッドJazz101で「ジャズは民族音楽として始まり、アメリカ文化の中心でアメリカを代表する大衆音楽となり、ラジオやジュークボックスで曲が流れていたかと思うと、あっというまにアバンギャルドとなり、再び少数派の音楽となり、世界中の知識人やヒップスター(気取りや)が聴くようになった。この変化がたったの50年で起こったのだ」と2000年に述べている。このようにジャズを考えたときに、最後の30年、つまり70年代から90年代にジャズがどのように展開してきたのかを知ることが非常に大切になる。そのときに非常に重要な音楽家が秋吉敏子さんなのだ。B♭で彼女のプロデューサーである岩崎哲也君に30年ぶりに再会。会いたいと最近思っていたのだが、どうも切っ掛けがつかめないまま時間が過ぎていた。中川ようさんのおかげで会うことが出来た。ようさん、どうもありがとう。下記は秋吉さんとようさん。

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またこの夜のライブについても書いてくれた。下記がURL。


http://yonakagawa.com/diary/post-131.html


岩崎(以下敬称略)とは慶應高校の同級生である。慶應高校から文学部に進む学生は少なく、同じクラスからは岩崎と小池君と僕の3名だった。小池君とはあまり口を利いていなかったのだが、岩崎とは良く話をした。彼は高校の時から大変なレベルのジャズピアニストで、マイルス・デイビスのバンドでピアノを弾いていたビル・エバンスの演奏をコピーをしたり、チック・コリアリターン・トゥ・フォーエバーを出したときに、フェンダーのローズを弾きこなし、ピアノとエレピでは和声が違うのだと説明して見せた。ボサノバの曲を弾き語りしてパーティで女の子にもてることしか考えていないような慶應高校音楽野郎の中で、圧倒的に音楽性で際だっていた。大学に入った年は、慶應大学の学生運動で最後のロックアウトがあり、日吉では授業がなかった。僕は暇なのでアテネ・フランセに通って、分かったのか分かってないのかすら分からずに、デリダやフーコーの本を読んだりしていた。

僕はそのころスウェッドの本の影響もあってアメリカの黒人大学への進学を企てていた。同じ頃岩崎のお姉さんもボストンのニューイングランド・コンセルバトワールのパイプオルガン科に留学をした。留学先のAlabama州Talladega大学は黒人のためのリベラルアーツの名門で、多くの卒業生が東部の名門校の大学院に進学をしていた。当時の学長はブレイスウェイト氏でやはりニューイングランド・コンセルバトワールをでて、ドイツの大学に留学をして音楽博士をとった黒人の学者だった。岩崎のお姉さんの先生だった世界的なオルガン奏者である林 佑子氏も彼はよく知っていた。

1年留学して帰国したあとも、ジャズを聴いたり語ったりするだけではなく、岩崎のお姉さんが所属している小林道夫さんの古楽器のオーケストラのコンサートや、慶應のワグネルオーケストラで岩崎がチェロを弾いていたので演奏会に行ったした。岩崎はその頃作曲に興味を持ち高橋 悠治(たかはし ゆうじ)さんのところに習いに行ったりしていた。そんなことで高橋アキがエリック・サティを演奏する会にも出かけていった。1975年頃の話だ。コンピュータの可能性が現代音楽の動きに大きな影響を与えると共に、グローバリズムの影響で世界各地の音が「流通」を始めた。現代音楽をささえていた基盤が壊れ始めていた頃でもある。そんなときに岩崎がガンサー・シュラー Gunther Shuller の話を始めたのである。ニューイングランド・コンセルバトワールの学長であった。

ガンサー・シュラーは若くしてプロの音楽家として活動を始め、マイルス・デイビスのバンドでフレンチホルンでジャズを演奏したりしていた。1950年の頃である。クラッシクとジャズの技法を組み合わせて新しい音楽をつくろうと"Third Stream" と名付けた活動を行い、いくつかの作品をつくり、Ornette Coleman, Eric Dolphy, そして Bill Evansが演奏した。作曲家として非常にアクティブで180に及ぶ作品を書いている。この話も面白いのだが、なによりも特筆すべきは1968年にニューイングランドコンセルバトワールにジャズプログラムを作ったことである。ジャズが新しい音楽になろうともがいているときに、クラッシック音楽の名門音楽大学にジャズ科を作ったのである。いまではアメリカの大学教育のなかでジャズ研究と教育は不可欠であり、このことについてはいずれ詳しく説明したいが、ジャズを音楽として正面切ってとらえた初めての試みと言って良い。ジャズに関する本も次々と出版した。そのいくつかは翻訳されている。

ジャズをクラッシックや現代音楽を同列において、自在に批評していく。この流れは、シュラーの他には、Max HarrisonMartin Williamsがいる。こうしたJazz研究への入門がスウェッドのJazz101だ。そんなわけで、1970年代後半にガンサー・シュラーに傾倒したわけである。その後岩崎は全音に就職。僕は大学院に進み、フルブライト留学生として1981年にアメリカのワシントンDCに留学する。DCにあるスミソニアン研究所と連携してアメリカを研究する研究科のあるジョージワシントン大学で研究を始めた。

そのころ、ラジオでいきなり聴いたような聴いたことのないようなジャズのオーケストラの曲が流れた。1970年代、Martin Williamsはスミソニアン研究所でジャズの録音の体系化と歴史的に重要だと思われる曲の再演を立て続けに行っていた。そのためにthe Smithsonian Jazz Masterworks Orchestraを編成して、シュラーが指揮を担当していた。そしてデューク・エリントンが作曲して部分的にしか演奏されていないSnymphony in Blackの再現公演をしたのだ。その曲がNPR(ナショナルパブリックラジオ)から流れてきた。なかなかの衝撃であった。そして、そのあとシュラーがホストを務めるジャズのピアノの番組があることをみつけて、時々聴いていた。その番組でかれがラグタイムについて語っていた。スコット・ジョップリンの業績を再評価して、再演をしていたことも知った。この番組が切っ掛けになって、いくつか調査をおこない、資料をあつめた。これが僕の初めての長文の評論「黒人イメージの再発見」となり『中央公論』に発表した。(この辺りの研究は拙著『アメリカン・ポップ・エステティックス』(青土社)でまとめてあるので、興味のある方は読んでみて下さい。)

僕は日本に帰り、日本女子大で教える一方で、1988年から慶應大学のSFC創設の準備を手伝って、1990年、開設と共に助教授として勤め始めた。アメリカのアイオワ州のGrinnell大学でアメリカ文化史の教鞭をとったりもしたが、基本的にはSFCで新しい研究の方法と分野を試行錯誤して忙しく過ごしてきた。この頃に全音からクラウンに移ったという話を岩崎と電話でした記憶がある。

北島三郎など演歌歌手のレコード会社として知られるクラウンは1973年、溜池にCRS(クラウン・レコーディング・スタジオ)を作った。このスタジオで南こうせつ、大貫妙子、鈴木茂、坂本龍一、矢野顕子、松任谷正隆、細野晴臣などが録音をした。(書いていて懐かしいね。)岩崎はそこで1989年からプロデューサーとして活動を始める。LPからCDへとメディアがかわるなかで、クラウンは洋楽の部門を充実させたいと考えたのである。

さて、秋吉敏子さんであるが、ジャズが新しい音楽ジャンルとして全貌を現すのは1970年代からでありそのときに大きな役割を果たした一人が彼女なのだ。彼女の偉大さは僕たちが日本で聴いているとどうもぴんとこないところがある。それはジャズのうねりを共感する音楽的コンテキストに欠けているからである。そこを埋めてくれるのが岩崎が数年前にまとめた秋吉敏子『孤軍』という本である。この本を追いながら秋吉敏子の意味を探ってみたい。

ガンサー・シュラーの仕事として高く評価されていることの一つに1989年にLincoln Centerでチャールス・ミンガス Charles MingusEpitaphの再演がある。秋吉敏子は1962年、チャーリー・ミンガスのグループに入団して、ピアノを弾く。ミンガスは大曲を準備していた。10月12日、コンサートを開いたが、準備段階では10人編成だったバンドが30人にふくれあがり、譜面を渡されたが、皆なんだか分からない。ミンガスはアレンジャーの方法が間違っているという。譜面のやり直しをしたが間に合わない。というわけでさんざんたる結果になった。この時の曲エプタフを再演したのである。

その後秋吉敏子はルー・タバキンと結婚して、ニューヨークからロサンジェルスに移り、1974年、ビッグバンドを編成して「孤軍」を発表する。3万枚を売る大ヒットになった。1978年から日本、アメリカ、ヨーロッパツアーを行い、「世界の秋吉」と呼ばれるようになる。ダウンビート誌の評価も高くなり、1977年には最優秀レコードとして「インサイツ」が選ばれ、ビッグバンドは第2位、作曲第4位、編曲で3位となる。『孤軍』からこのあたりのところを引用すると、「ちなみにビッグ・バンドの一位はサド・ジョーンズ=メル・ルイス。二位の秋吉の次点はカウント・ベーシー。作曲は4位の秋吉の上は、一位、チャーリー・ミンガス、二位カーラ・ブレイ、三位、チック・コリア。編曲は一位ギル・エバンス、二位サド・ジョーンズ、三位の秋吉敏子の次点四位はカーラ・ブレイという、まさに身震いするような、凄い内容だ。」

1981年にはダウンビート誌で、読者人気投票ではビッグバンド、作曲、編曲で一位となり三冠達成をする。どの部門も圧勝であったというが、ふたたび『孤軍』から引用すると、「ビッグ・バンドの二位はカウント・ベーシー、3位はウディー・ハーマン、四位はサン・ラ(!)、作曲の二位はチック・コリア、三位はウェイン・ショーター(!)、編曲の2位はギル・エバンス、三位はクインシー・ジョーンズ(!)」だという。これは何とも凄い。1972年からの10年間、秋吉は42才から52才、まさに体力気力精神力のピークにあり、自分の作品しか演奏しないオーケストラを維持して演奏を続け、20枚のアルバムをだし、そのうち13枚がビッグバンドである。1982年10月、ふたたびニューヨークへ居を移すことになる。

ジャズオーケストラをニューヨークでつづけることはなかなか難しかったという。ロスではジャズミュージシャンがジャズを演奏する機会がすくなく、秋吉のオーケストラにはせ参じたが、ニューヨークではジャズミュージシャンは仕事が多くあり、ギャラも高いからだ。1989年に作曲の依頼を始めて受ける。福岡市からであった。現代音楽の作曲家のように委嘱されて曲をつくり、演奏で初演をする。そんななかで1990年、秋吉敏子がピアノアルバムを日本クラウンで作ることになる。プロデューサーは岩崎である。オーケストラの録音はアメリカで販売できる会社にこだわっていたが、ピアニストのアルバムはどこでもいいという柔軟な姿勢があったからだという。クラウンは流行歌中心だったが、CD時代になってより芸術性の高いアーチストをさがしていた。最初のアルバムは「四季」と「リマンバリング・バド」で後者はジャズチャートで首位になった。1991年には「シック・レディ」、1993年に「ディグ」、1994年に「ナイト・アンド・ドリーム」と続く。

LPからCDへとメディアを変えた音楽であるが、いままたメディアが変わろうとしている。クラウンは2008年に溜池のスタジオを閉鎖する。岩崎は仲間とCRSソングスという会社をつくり、午前中はスタジオに顔を出してあとは自宅のスタジオでしごとをしているという。「CDなんて一人で作ることが出来る時代になった。100人の人間を食べさせるビジネスではないのだ」と言っていた。まさにその通りだ。CDの登場と衰退の20年が彼のクラウンでの時代であり、僕も考えてみればパソコンの登場と衰退の20年がSFCの時代だったなあと思う。いま、KMDで教え始めて、つくずく時代は新しい局面に突入しているおもう。岩崎プロデュースの秋吉敏子さんのピアノCD発売が楽しみである。下記写真は秋吉敏子さん、岩崎、奥出。撮影は中川ようさん。

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by naohito-okude | 2009-10-23 07:42 | Jazzライブ